田宮如雲、市川甚左衛門の墓 | 史跡巡りのブログ

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八事山興正寺の東八事霊園の北向かい、徳林寺墓地に田宮如雲の墓碑が建てられています。

 

寺の入口に建つ「桂園田宮如雲之墓 当山に在り」の標石。道路沿いに建っているので、直ぐ発見できると思います。右隣の石碑には、「高木市之助先生文学碑 当山に在り」と掘られていました。彼は名古屋市出身の国文学者・教育者で、講談社から出された「高木市之助全集」(全10巻)が著名です。

 

 

 

本堂裏が墓地になります。田宮如雲の墓は北東隅にあり、墓石前には墓誌碑が建てられています。

 

~~~~墓誌要約~~~~

文化5(1808)年生まれの尾張藩士。天保10年、勤王を掲げて「金鉄党」を組織し、城代家老・明倫堂総裁を経て、明治の王政復興で参与に任ぜられ、のち名古屋藩大参事に任命される。明治4(1871)年没す。享年64。

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「金鉄党」党首として支藩高須藩の慶勝を藩主に押し上げたことで知られています。慶勝が藩主に就任した後、彼はブレーンとして勘定奉行・町奉行・側用人といった重職を転々としました。しかし安政の大獄で慶勝が謹慎されると、金鉄党党員も悉く捕まり、彼は屏居させられた上、家禄を100俵まで減らされました。文久2年、慶勝の解放で再び政界に返り咲き、家茂警護のため上洛する慶勝に付従い、文久3年に城代に任命され、家禄も1500石までに増進しました。元治元年、長州征伐で慶勝が総督に任ぜられると、田宮は参謀役として付従いました。幕府としては、長州藩を懲らしめるために軍隊を送ったのですが、両氏は主犯数名の斬首のみで戦争を終結させてしまったため、激怒した幕府は慶勝を幕政から遠ざけ、田宮はふたたび屏居させられました。慶応3年、屏居を解かれ、明治元年参与に就任し、翌2年に名古屋藩大参事に任命されました。

 

 

田宮如雲は、その生涯の殆どを慶勝のために捧げました。その徹底した忠義が明治政府に評価され、死去後の明治11年に従四位が送られ、さらに同30年10月には如雲の功績によって、孫:鈴太郎に男爵の称号が与えられました。

 

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市川甚左衛門の墓は徳林寺に入口の南向かい、東八事霊園にあります。

 

市川甚左衛門正好(1679~1757)

延宝4(1679)年生まれ。元禄4年3月、藩主光友の初御目見えが行われ、同7年12月に光友御付の50人組に抜擢されました。同9年5月、名前を「喜三郎」から「甚左衛門」に改名。宝永4年6月に上松奉行、同5年10月に水奉行、享保8年に尾州郡奉行と役職を転々とし、元文5年に上松奉行を廃して設置された木曽材木奉行に任命されました。在任中、市川は直接木曽山に入って調査し、山林を留山・明山・巣山(鷹繁殖のため、入山禁止にした山)の3種に分け、さらに明山の5種の木に対して伐採を禁ずるなど、木曽山林保護に尽力しました。延享2年5月、10年間の務めで「御山木種至極大切ニ取扱年来無懈怠勤労仕候」と評価され、褒美として紋付の帷子と羽織を貰い、8月の解任時には300石に加増されました。同月から岐阜奉行に就任するが、同6年に加齢による衰えと病気を理由に退き、翌7年4月病死しました。享年79。