相手の立場に立つ。
なんて、美しい所作なんだろう。
道徳の授業が本当に大好きでした。
その授業でも、何回も教えてもらった
.....お相手の立場に立つ。という行為。
すっごくすっごく素敵ですよね。
でも.....今ならわかる。
お相手の立場に立って、
相手を大切に思いやれるのって、
自分を認めてる、
自分を愛してる、前提ありきだ。
だって
自分の事どうでもよかったら、
根本のところでは
全部がどうでもいいんだもん。
相手の立場に立ったところで
そもそも、どうでもいいよね
ちゃんと
道徳で教えてもらった通りに
ちゃんと
相手の立場に立つ。
それでも、その答えが、
心から湧いてくるわけない。
自分を認める、愛する、って事は
世界平和の第一歩で間違いない。と、思う。
目の前の相手を置き去りで
世界平和はありえない、と思ってた
過去の自分に教えてあげたい。
相手の立場に立つ、という道徳観ですら
自己愛のある人が創ったものなんだよ。
と。
この前の木曜日に
めちゃくちゃ久しぶりに
アカスリとオイルマッサージ受けたんです。
めちゃくちゃ気持ち良かった。
以前は、良い気分になるため
(要は、成長拡大のため)←笑
本当よく受けてた、オイルマッサージ。
その時、私は本当に気持ち良くて、
身体が満たされると同時に
その「快感」が心に
染み込む、染み込む、染み込む感じ。
ところが、ところが、
今回のオイルマッサージは
身体が満たされると同時に
この「喜び」が色んな人に広がっていく
そんなイメージを持てたんです。
料金を払ってくれた友人♡
一生懸命アカスリしてくれたおばちゃん♡
子守してくれる旦那様♡
みんなにも「喜び」が広がって行って欲しいって
自然にそんな風に思いました。
嬉しかった。
(その時浮かんだ人が、
その快感に直接関わる人だったから
まるで義理返しみたいだけど←笑
感覚としては「喜び」の拡大です!笑)
きっと
もっともっと喜びを感じれば
もっともっと、通りすがりの人にですら
喜びが広がって欲しいとそう思うやろな。
今まで生きてきて、
こんな感覚になった事は
もちろんあります。何度か。
でもそれは、結婚したり、出産したり、
人生の一代イベントと思えるものや
夢が叶う、みたいに
よっぽど、現実的な何かが
自分の世界に現れた時のみでした。
ようは、外側がわかりやすく
大きく満たされた時。
どんなに「私」に欠けた感覚があっても
それ以上の幸せが注がれれば
似たような「至福」は得られていました。
でも、今、頭の中が明快になり、
その都度その都度、
自分に🆗出せるようになると
欠けていた自分の器が
いつのまにか埋まっていて。
具体的な現実が特に変わっていなくても
小さな幸せでも、
満ち足りる。
他人にあげたくなる。
エイブラハムが言っていた、
「最初は気分の良さとして
現れるだけかもしれません。」
ちょっと胡散臭いと思っていたこの部分!笑
これ言い出したら、
何とでも言えるやろ!みたいに思ってた。笑
ようやく、わかったんです。
気分の良さとして現れた時
こんなに嬉しいんか!って。
頭で否定しながら、
気分良くはなりにくい。
てか、なれん!!!!!
「目の前の相手よりも、まず自分」に
(思い通りに行かない時だけ)
長らくつまづいていた、
拗らせ黒帯の、荒川真理さんへ。
自分の事すら、幸せにする覚悟のない人が
他人の幸せ語るなんて
めちゃくちゃおごがましいんだぜー!!
相手の立場に立つ前に
自分の「立場」はイヤヨロチかい???
ゲカレチに自分を立たせたまま
何をもって「お相手のため」なのか
何をもって「思いやり」なのか
今一度、思い出そー
何でこんなに美味しいのかよー♡
真理