ししどの窟の源頼朝
前田青邨画
実は、『平家物語』 には梶原景時に関する記述は、文覚上人同様きわめて少ない。
よって特に前半は、『吾妻鏡』 と 『源平盛衰記』 に頼ることになる。
梶原氏のような中小の豪族は、源・平という大族の勢力争いの動向によって源氏に付いたり平氏に味方したりしている。
家族や一族郎等の生命や生活を守るためには仕方がなかったのだ。
梶原氏はもともとは平氏の流れだが、源義家が関東に勢力を張っていたころは源氏の家人になり、平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従った。
治承4(1180)年8月、源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して殺害する。
つづく【石橋山の戦い】では、梶原景時は同族の大庭景親とともに、平家方として頼朝討伐に向かい頼朝軍を破った。
山中に逃れた頼朝を追跡してきた景親が、「この臥木が怪しい」 というと景時が洞窟【ししどの窟】の中に入っていった。
すると、頼朝がいるではないか。
頼朝は、「今はこれまで」 と自害しようとするが景時が制した。
「お助けしましょう。
戦いに勝たれたときは忘れないで下さい」
いい残すと、洞窟を出て、
「こうもりばかりで、誰もいない。向こうの山があやしい」 と叫んだ。
景親か怪しんで洞窟に入ろうとすると、景時が立ちふさがって、
「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」
大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。
この時のことを恩義に感じて、のちに頼朝が景時を重用したともいわれている。