松風⑮紫の上 | 吉備路残照△古代ロマン

吉備路残照△古代ロマン

吉備路自転車道を回って以来すっかり古代吉備国の残り香に取り憑かれました。
歴史と神話が絡み合っているから多くの遺蹟の故事来歴が謎に包まれています。
鬼ノ城・温羅伝説・鳴釜神事等の謎に新しい解釈を加えていけるので楽しみです。

王朝女流歌人と作家の地方生活②

 

 

和泉式部  天元元年/978年頃~没年不詳

【和泉式部公園】  佐賀県嬉野市

嬉野市で生まれ、9歳まで過ごしたとも伝えられている。

(生誕地候補が数か所ある)

 

長保元年/999年頃に和泉守・橘道貞の妻となり、

和泉国 (大阪府和泉市) に赴任。

女房名「和泉式部」は、夫の任国と父の官名を合わせたもの。

 

恋愛遍歴が華やかで、藤原道長から「浮かれ女」と評された。

「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」紫式部

 

 

 

『菅原孝標女の銅像』 千葉県市原市五井

菅原孝標女 すがわらたかすえのむすめ

寛弘5/1008年~康平2/1059年頃

 

10歳のとき,父の任国である『上総国』に下向した。

『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母は伯母にあたる。

 

幼い頃から、『源氏物語』を読破することが夢だった

 

『更級日記』に、

 

 

 

「はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ『源氏』を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ昼は日ぐらし、夜は目の覚めた

る限り灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ--」

(中略)

「我はこのごろわろきぞかし。盛りにならば、容貌も限りなく よく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏夕顔宇治の大将浮舟の女君のやうにこそあらめ」

 

◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

急なことで取り繕うこともできず、源氏紫の上の目の前で手紙を開いて読むほかなかった。

 

これといって、紫の上の気分を害するようなことは書かれていない。

 

紫の上の膝のまえに手紙を置いて、


「この手紙、あなたが破り捨ててください。

わたしはもう、こういう手紙を読むことが億劫におもえる年頃になってしまいました」

 

紫の上は、膝の前に目を落とそうともしない。

 

 

 

 

 

源氏は話題を変えた。

 

「明石で産まれた3歳になるが、あちらに来ております。

あちらでは、このままを育てていいものか困っているようです。

 

あなたさえ良かったら、こちらで育ててくださいませんか。

無邪気な可愛いです。

また嫌でなければ、『腰結いの役』を勤めてやってください」

 

紫の上は意外なことに微笑んだ。

 

光君は、わたしがいつも嫉妬していると思っておられますが、そんなことはございません。

幼ない姫君は、きっとわたしを気に入ってくださいましょう。

どんなに、かわいらしいお年頃かしら」。

 

 

 

 

 

源氏が嵯峨野の大堰に出かけるのは、御堂での念仏を口実に、一月

に二度ほどである。

 

しかも、紫の上に気兼ねして一泊か二泊。

 

それでも、年に一度の七夕の逢瀬よりはまだましと明石の君は思うようにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

STU48の新人メンバーからすれば、ご先祖様のような初代と現役の芸能界で長く活躍できそうなツートップの絡みです。

 

 

 

意外なことに、三人は一歳ずつしか違いません。(当時、21 20 19)

ほどなく初代は卒業、タレントアイドルは博多へ。

おっぱいちゃん」(初代)は、本格派ミュージシャンへ。

 

 

 

山本彩と、口ゲンカが出来そうもない前田敦子の代わりに喧嘩を買って出る指原莉乃

エケペディアによると、山本彩の憧れの先輩は前田敦子

なのに、ふつうにドスの利いた物言いができる。

 

 

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