平家物語の群像 平重衡⑰重衡、頼朝と対面 | 吉備路残照△古代ロマン

吉備路残照△古代ロマン

吉備路自転車道を回って以来すっかり古代吉備国の残り香に取り憑かれました。
歴史と神話が絡み合っているから多くの遺蹟の故事来歴が謎に包まれています。
鬼ノ城・温羅伝説・鳴釜神事等の謎に新しい解釈を加えていけるので楽しみです。

$吉備路残照△古代ロマン-鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市


重衡が鎌倉に着くと、さっそく頼朝が問い糺した。

後白河法皇の憤りをなだめ、父義朝の敵を討とうと思い立った以上、平家を滅ぼすつもりでいたが、まさかこのようにお目にかかろうとは。
この分なら、宗盛殿にもお目にかかれそうですな。ところで、南都を焼いたのは故清盛殿の仰せですか。貴殿の状況判断ですか。いずれにせよ、もってのほかの所業ですぞ」

重衡は答える。

南都炎上については父の指示でもなく、私の企てでもありません。衆徒らの悪行を鎮めるために出陣して、思いもよらず寺院を消失させたことは、私の力が及ばなかった結果です。

かつては源平が朝廷の左右に控えて警護していましたが、ひと頃源氏の運が尽きたことは誰もが知っているところです。

一方、当家は保元・平治の乱以来、たびたび朝敵を征伐し、恩賞は身に余るほど。清盛は太政大臣の位に就き、一族の昇進は60余人、20余年間の繁栄は例を見ないものでした。

それにしても、「帝王の敵を討った者は七代まで朝恩が尽きない」というのは間違いです。亡き清盛が、後白河法皇のために命を捨てようとしたことは度々ありました。

しかし、清盛一代の栄華であって、私たちはこの有様です。

一門の運が尽き果て、都を落ちてからというもの、屍 (しかばね) を山野に晒しました。
不名誉を西海の波に流そうと思っていました。虜囚の身として、当地まで下ることになるとは夢にも思いませんでした。

但し、『史記』に殷の (とう) 王は、夏の (けつ) 王によって「夏台」に捕らわれ、周の文王は、殷の (ちゅう) 王のため「ゆう里」に捕らわれたとあります。

中国の古代でもかくのごとし、末世であれば尚更でしょう。

弓矢を取る者が、敵の手にかかって死ぬことは決して恥ではありません。頼朝殿に情けがあるなら、直ちに、この首を刎ねていただきたい」

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それっきり、重衡は何も語らなかった。

梶原景時は、重衡の言葉や態度に、あっぱれな大将軍であられると感動して、涙を落とした。

ほかの武士たちもみな、感銘を受けて袖を濡らしている。

頼朝は、「平家を不倶戴天の敵などとはゆめゆめ思ってはおりません。ただ後白河法皇の仰せが重たい」と言い残して席を立った。

「重衡殿は南都を滅亡させた仏敵だから、衆徒らには言いたいことがあるはず」と、伊豆国の住人狩野宗茂に預けた。