命をかけてやりたいこと@DEATH「死」とは何か |   Hilole Lani

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   糸を紡ぎ、布を編むように一人ひとりが好きな世界を創っていき、
   それぞれの世界が出会いによって重なり、共に経験していくことで
   さらに美しい世界が広がっていきますように☆




こちらを読みました。




 

 



何年か前に話題になりましたよね。


電車の広告で見かけて

面白そうだなーと思ったのを覚えています。




「人は必ず死ぬ。だからこそどう生きるべきか」と

まぁ、そのままなんですけど。





 これを↓

 

読んだんだけどなぁ…。

過去のノートが見当たらない…。






なんか、リンクしますよね。








この本は「死」について

色んな人生パターンを挙げて

議論していくんだけど

どれも「はぁ、そうですね」という

当たり前の論議が書かれていました。



全部結果論。


後が分かっているからこそ言えること。





当たり前のことを

これだけのページ数書くのがすごいし

これこそ哲学なんだろうけど。





うーん…私、哲学書の読み方下手なんかな?w







なかでも違和感を覚えたのは

「死はなぜ悪いのか」という項目。


死を悪いものとして議論を始めているんですよね。




死が悪いものと思ったことはないので

「んんん??」となりました。




死が悪いのは

「これから先の人生で享受されるであろう良いことを剥奪されてしまうから」と。




でも、

私たちは快感を得るために生きているわけではない。




良いことを享受するために生きているわけでもない。





物事の良し悪しは関係ない。






だから

「死」に良し悪しはない。


「死」によって都合の良し悪しはあるだろうけど。



「生」も然り。




良し悪しではなく自然なこと。



成り行き。





悲しむことはあるし

残念に思うことはあっても

悪いことではない。





おそらく


お彼岸やお盆など一年のうちに

何度も故人を偲ぶ機会がある日本人にとっては

しごく自然なことなんじゃないかな。



ましてや、家に仏壇があって

毎日のように手を合わせている人にとって

「死」が悪いわけがない。




そんな日本人にはあまり響かないんじゃないかな。







裏表紙に

「余命宣告された学生が〝命をかけて〟受けたいと願った伝説の講義」と

あるのですが、


読んでいて思ったのは

これは

「余命宣告された学生が〝命をかけて〟学位を取るために受けた講義の一つ」なのではないだろうか。





なんか批評みたいになってるけど

批判しているわけではないです。



読めてよかったと思っています。







私がこの人生において

命をかけてやりたいことといったら


「一貫して私で在ること」


私のままいろんな景色がみたい。

いろんな経験をしたい。



「私で在る」には

たくさんのご縁と支えが必要不可欠です。


人格を持っているという、人間の豊かさよ。



決して独りよがりではなく

そういうつながりを大切にしていきたいです。




死ぬときは独りといいますが、

それを肯定するなら

生きるのも独りです。




独りだからこそ

たくさんの人と繋がれるんです。





独りでいることに淋しいとか思わない。



「独り」を感じられるって

とっても豊かなことだと思う。



ときには寂しささえ、豊かなことかもしれません。





寂しさを感じられるって

優しくなれる糧でもある。




ネガティブもポジティブも

全部糧になるんだと、

そう思えることだと思います。






メクラブドウの色づきも豊かさの象徴照れ