前編はこちら↓

後編



***






部屋に入るとすぐに慣れた仕草で上着を奪われ、適当にその辺座ってと促された。


「何か飲む?って言っても酒はもうやめといたほうがいいね」
「え、いや、なんか一杯くらいなら」
「ダメだね、もうやめといて。明日支障が出ても責任取れないし」

……まずいな。
酔いに任せていたいのに。
相手が酒抜きで話すつもりだと思ったら急に心許なくなってきた。

「はい、ちゃんと水飲んどいてね」

目の前に置かれたグラスの中で透明な液体が無情に揺れている。


「俺、もう帰ろっかなー」
「……なにそれ」
「だって、中途半端に酔った状態で酒もなしになにすんの。真面な話なんてできねえよ、きっと」

冗談で言ったつもりだったけれど、俺が笑っても全く笑わない松本にますます居心地が悪くなる。

「冗談だよ、冗談!そんな怖い顔すんなって。あー、よし。……で、なんだっけ?まあまあ、松本さんもそんなとこ立ってないで、どうぞこちらに、どうぞどうぞ!」


ああ、また、若干挙動不審。

そしてなぜか松本に気を遣っている俺。

だけど、もはやこれが対松本時の俺の通常仕様みたいなものだった。


「……また逃……まあいいけどさ、もう慣れたし。じゃ、お言葉に甘えて」


そう言った松本がすぐ俺の横に座ってきて、思わず「近っ」と口から洩れた。

「翔くんだって近かったじゃん」
「あ、……まあ、そうだよな。はは、お互いさまでした」

面白い返しなんか全くできない。
表面だけの言葉を並べる俺と、何か言いたそうな松本。

そりゃ松本の目には逃げてるように映るだろうよ。


「翔くん」

「ん?」
「こっち見て」

なにそれ。

「ずっと思ってたけど、なんで俺のことあんま見てくんないの?」

「は?」


何だかわからないけど情けない自分とやたら攻めてくる松本に少し自棄になってきて、半ばやけくそで思いっきり隣を見てやった。

なのに、何となく怒ってるかもと思っていた松本は全然怒っていなくて。むしろ驚いたような顔で見つめ返してきて、文句あるかという気持ちで彼を見た俺の勢いは宙ぶらりんになった。

それでも今目を逸らしたらなんだか負けな気がして、躍起になって見つめ続けた。

そのうちに松本の瞬きの回数が増えてきて、やがてその表情が微かに歪んだ。


「……松本?」

俺が名前を呼ぶのとほとんど同時に、はは、と笑った松本が目を伏せるようにして俺から逸らした。

そのまま項垂れるように顔を両手で覆ってしまった相手に若干戸惑っていると、その身体が少し震えているのに気づいた。


「松本」

もう一度名前を呼ぶ。

「……さっきも言ったけど」

指の隙間から漏れてきた声が少し籠って聞こえる。

「何?」

「本当は俺、潤って呼んで欲しいんだけど。でも今は松本でいいや」

「……潤」
「……いやいや」
「潤」
「やめてください」

なんだか知らないけど形勢逆転したみたい。

俺はこんなに下衆な奴だったのかと若干自分に幻滅しつつ、一転してこの状況が少し楽しくなってきて。

顔を覆い続ける松本の腕をそっと掴んで引きはがした。

「どうしたんだよ?」

その隙間から覗くように見れば、伏し目がちに瞬く長い睫毛に囲まれた瞳と目が合った。


「そういうの、ずるいんだよ。これもさっき言ったけど、ほんとそういうとこだよ」


手で覆っていたせいで籠ってるもんだと思った松本の声は、いつもよりも随分鼻にかかっていた。


「泣いてんの?」
「俺のこと避ける癖にそうやってかまってきて。追えば目も合わせてくれないのに、こっちのことにはすぐ気が付くし」

深くて長い溜息をついた松本がゆっくり顔を上げ一度だけスンと鼻をすすった。


「ほんと嫌いにさせてくれないよね」


小さく笑った顔が少し切なく見えて、思わず名前を呼びかけた瞬間、

「ずっと好きだよ、俺。

翔くんのことが、昔からずっと」


ドラマのように、真っ直ぐに俺を見つめた松本がそう言った。

思わず息を呑んだまま何も言えずにいたら、松本の顔がゆっくり近づいて来て、

その唇が俺のそれにそっと触れた。


かわすこともできたのに。

もっと、動揺していいはずなのに。


俺は、すぐに離れていったその感覚を名残惜しくさえ感じてしまった。


「俺、ずっと特別になりたかったんだ。翔くんに釣り合うような人間になりたくて。

だけどいつだったか、翔くん自身がどれだけ特別な人でも、一人の人間として望んでるのは普通の幸せなんだなって、そう気付いた」


喋り出した松本の横顔を見つめながら、思考が止まったようにただ彼の言葉を聞いていた。


「だから諦めようとしたんだよ」


諦めるって、何を?

俺のことを、か……?


「多くの人が望むようなことを翔くんが望むなら、そこに俺の入る余地はないと思ったから。

普通に恋愛して、普通に結婚して。そうやって過ごしていきたいあんたの邪魔をしたくなかったから」


普通の恋愛、普通の……それは確かに俺が望んでいたものだけど。


「それでも、諦めきれなかった」

「……それって、どういう」
「そのまんまだよ」

再び真っ直ぐ見つめられて思わず動揺した。

取り繕って大袈裟に怪訝な顔をしてみせれば、松本が小さくため息をついた。


「わかるでしょ。っていうか、気付いてたでしょ、ずっと」

「え?」

「翔くんは、俺の気持ちずっと知ってたよ」

松本の言葉に、突然鼓動が速くなる。

胸が痛んだ。

締め付けられるようなキリキリとした痛みに、なぜか責められているような気がした。


「俺は、なにも……」


何も知らなかった、そう言おうとして、それが何の意味もないことに気付く。

視界の中の松本の瞳が祈るように揺れている。

「……わかんねえよ、そんなの」
「本当に?」
「そうだよ、お前の気持ちなんて一番わかんねえよ。ずっと何考えてんのかわかんねえし、俺のことだってもう」

「翔くんがわかってないのは俺の気持ちじゃないよ、自分の気持ちでしょ」

「はっ?なんだよそれ……」


遮った松本に言い返そうとして言葉に詰まった。


「わかってないわけじゃないね、わかろうとしなかったんだよ。真っ当に、普通でいたいから」


ゆっくりと距離を詰めた松本の手が、頬に触れる。


「翔くんも、俺のこと好きだよね?」




……どうして。



ずっと、見ないフリをしてきたのに。



思わず固まった俺に気付いてかそうでないのか、再びそっと唇を重ねられた。

触れた場所から感じる松本の体温。

俺は何も抵抗できなかった。

できなかった、というのは違う。する必要が、なかった。

嫌じゃないとか、戸惑いとかそんなものでもなくて。

不意に、さっきから痛んでいた胸が一層震えて何かが崩壊するような感覚に襲われた。

引き離すでも抱き寄せるでもなくただ松本の腕を強く掴み、途中から考えることを放棄したせいでやっと離れた松本に言われるまで自分が泣いていることにも気づかなかった。


「翔くんでもそんなに涙流すんだ」
「なんなんだよ、お前……」

声が震えた。

なんで、どうして。

訳もわからず、ただこのタイミングで松本に泣き顔を見られた己の情けなさには苛立った。それでも嗚咽を漏らさなかっただけまだマシかもしれない。

おもむろに立ち上がった松本がすぐに戻ってきて、フェイスタオルを差し出された。


「……なんだよ、これ」
「顔、ふいて」

「……でかすぎねえ?普通ハンカチとかじゃねえの」

「だってめっちゃ泣いてるし。本当は俺の手でぬぐいたいくらいなんだけど」

「ごめんなさい、ありがとう!ありがたく使わせていただきます」


勢いよくタオルに顔を埋めてブーっとやってみれば、頭上から「うわ、鼻かんだ」と慌てる声が降ってきた。

松本の香りがするタオルの中で、涙が止まらなかった。



気付くつもりなんてなかったんだ。


本当に。






まだ若かったあの頃、何気ない景色の中で俺は、ある日ふと松本に対する自分の感情の変化に気付いた。

俺を頼っていたか弱かったはずの男が、いっちょ前に成長して、輝きだして。自分の力で誰よりもストイックに努力を重ねる男になり。そんな姿に目を奪われて、気付けば松本潤に、そういう意味で惹かれていた。


そんな自分に戸惑って、だけど結局、見て見ぬフリを決め込んだ。普通でいるためには邪魔なものでしかなかったから、すぐに捨てたつもりだった。


松本が俺に向けている何かしら特別な感情にも、ずっと気付かないフリをして。
壊れることを必死に阻止した。

俺にとっての普通の幸せが壊れないように。

ただ、それだけだった。

「翔くんがどういうつもりだか知らないけど」

不意に近くで松本の声がして、再び俺の横に座ったんだと分かった。
タオルを当てたまま二度と顔を上げられない気がした。

「俺は諦められなかったから、待つことにしたんだよ」
「……何を」
「うわ、すっげえ鼻声、ちょっとそろそろタオルとったら?」
「無理無理、マジで無理」

人の話を聞いていないのか聞く気がないのか、強めにタオルを引っ張られて慌てて掴み返す。


「顔見て話したいんだけど」
「いやいやいや」
「いやいやじゃなくてさ……」

「いやいや、ちょっと勘弁して。俺にもプライドってもんがあんのよ」

「なにそれ……はあ、まあ分かったよ」


聞き分けの良い子に育ってくれて良かった。

そう思ったのに。

油断した瞬間、思いっきりタオルを引かれて思わず前のめりに倒れた。
気付くと松本の腕の中で強く抱きしめられていた。

「全然聞き分けよくねえな……」
「なに?」
「なんでもないです」

人のうなじに思いっきり顔を埋めて息を吸い込んだ松本の声が、なんだか笑っているようで。

「俺、待ってたんだよ」

呟かれた声もくすぐったく感じた。

「だから、何をだよ」

「翔くんが、普通の幸せを手に入れるのを。正直全く辛くないわけじゃないけど、これでもう我慢しなくて済むとも思ってるから。初めて聞いた時もおめでとうくらいは嘘偽りなく言えたつもりだけど」


松本の言う“普通の幸せ”というのが何のことなのかは、すぐに察しがついた。

また胸がチクチクと痛んだけれど、だからと言って俺にはどうすることもできない。


「我慢しないってどういうこと?」

「……俺は、あなたの幸せを壊すつもりはないし、壊したいとも思わない」
「……うん」

背中に回された腕に一層強く抱き寄せられて、身体も心も苦しいはずなのに不思議に落ち着いた。

松本に抱きしめられるとこんな感じなんだ、なんてぼんやり思ったりして。

「希望どおり普通の幸せを無事にゲットした櫻井さん、おめでとうございます」
「……なんだよ、その言い方」

松本が少し身じろいで、肩に感じていた重みが消えた。

これは、多分俺を見てる。そう思ったからこっちも少し身体を離して視線を合わせた。

「今度は俺と、特別な幸せを手に入れませんか」

「……ん?」

「特別な幸せ、どうですか。名前を付けたらきっとよくないものになるけどね」


そう言って笑った松本の笑顔を見ていると、やっぱり少し切なくなって。
だけどそれは寂しさというより、愛しさのせい。それに気付いて、完全に自分の心の箍が外れてしまったのを感じた。

「愛しさと、切なさと……」
「心強さと?」
「正解」
「いや、ちょっと言ってる意味がわかんないです」
「お前が言ってんのって、不倫しよう、みたいなこと?」

「……翔くんってもっと言葉選べる人だと思ってた。……でもそうね、そういうことになるよね」


特別になりたかったという相手に、手を引かれている、普通でいたかった俺。


だけど壊れることを恐れた頃に必死に守ろうとしていた普通はもう、ここにはない。


松本に想いが届いてしまったから。

その腕に抱きしめられる感覚を知ってしまったから。

一生知ることもないと思っていた、その唇の、優しく触れる感触も。


壊すつもりがないと言った松本の言葉は、もはやそれが本心かどうかもどうでも良かった。

一度溢れてしまった十数年間押さえつけていた想いは、きっと二度と元の箱には戻せない。

「……誕生日、さっき言ったのでいいよ」

その瞳を真っ直ぐ見ることができなかったのは、隠した胸の内を見透かされている気がしてたから。


見つめた先の綺麗な顔が眉を顰める。


「さっき言ったのって、パワーベルト?」

「いや、それじゃないほう」


俺が突然ほじくり返した話題に、凛々しい眉をますます顰めた松本が分かり易く大袈裟に首を傾げるポーズをして見せてきた。

そういうところ、本人には死んでも言えないけど愛おしくて堪らなくなる。


「……城っすか?」

「おー、that’s right!」


茶化すように指をさして笑ってやれば、表情は緩んだもののそれでもまだいまいちな様子。


「今はそんなことより俺の一世一代の告白の返事が聞きたいんですが」
「特別な幸せ?」
「ちょっと……自分で言っといてアレだけど、あんまり何回も言わないでくれる?なんか恥ずかしいんだけど」
「あー……ははは!確かに!」
「笑いすぎ」

呆れた目で見られたかと思ったら、目尻に溜まった涙をぬぐっていた手を不意に掬われて。

何かと思えばそのままその甲に軽く口づけられた。


「城だって建てるよ、翔くんのためなら。翔くんは殿じゃなくて皇帝とか王子様とか、そっちの方が似合うけどね」

言ってることもやってることもそっちのほうがよっぽど王子だろ、と思う。

熱を与えられた右手が熱い。


「……城が欲しいって言うのはさ」

顔を上げた松本と目が合う。


「俺とお前の、二人だけの場所が欲しいってことだよ。それが、俺の答え」


見つめた先で徐々に大きく揺らめき出した瞳がゆっくりと閉じられて、「うん」と短い返事が返ってきた。

そのまま俯いた松本の表情が見えなくなると、なんとなく触れたくなってその髪をそっと撫でた。


「潤」

「……またそうやって名前……、泣かせに来てんの?」

「もう泣いてんだろ」


簡潔で単純な一番伝えるべき言葉は、今の俺にはまだ少しハードルが高くて。

だけど、だから目の前の相手がどれだけの勇気を持ってあの言葉をくれたのかは痛いほどわかっていた。


髪を撫でる手を頬に滑らせるとその手に松本の手が重ねられて、


「触れていいんだと思ったら、触れたくて堪らなくなるもんだね」


おもむろにそのまま抱きしめられた。


「松本さん、さ」

「……安定しないね。なんすか」


彼の勇気の何分の一かもわからない程度の、だけど最大限の想いを込めて。


「お前はずっと特別だったよ」


今度は俺から、その唇にキスをした。









fin.