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Side J
「…─松本?
時間あるかって聞いてんだけど?」
再び櫻井に聞かれて我に返る。
ほんの一瞬、あの夜の記憶にのまれていた。
「時間ってどんくらい?11時から打ち合わせなんだけど」
日が経つにつれて、今まで自分がどんなふうに櫻井に接していたのかを思い出せなくなっていた。
後悔しないと言っておきながらまるで全部を忘れてしまったような相手に恨む気持ちすら芽生えて、これを未練と言うのかもしれないと思った。
「ん、なんか機嫌悪くね?」
「……別に」
「まあいいや、ちょっとこっち」
言うなり歩き出す櫻井の後を追っていく。
やがて廊下の突き当り、一番奥の会議室にその背中が消えた。
他に周囲の部屋にも人気はなく、辺りは静まり返っていた。
「一応、鍵閉めといて」
入るなり背後を指さして促された。
「なに?」
「いいから」
鍵をかけて振り向くと、突然目の前にほい、と右手を差し出された。
「……だからなに」
「さっき資料まとめてたら切れたんだよ。ちょうどいいやと思って、ほら」
見ると人差指の先に1cmほどの切り傷があった。
切口が深いらしく抑えていた指を離した途端にじわじわと沸き出るように血液が流れ始めた。
急激に、止まっていたあの夜の時間が動き出す。
思わず言葉に詰まる。
あの日から、まるで何もなかったかのようにしておいて、どうして。
「今日さ、仕事上がったら来いよ。俺んち」
瞬時あの夜の櫻井の姿が脳裏に浮かぶ。
「……え」
「俺も残業入れてねえし、定時で切り上げるから」
「なんで」
「なんでじゃねえよ、満月だろ、今夜」
胸の奥がざわついた。
ひと月も、何食わぬ顔をしていたのに。
「……何も、言わないから」
「え?」
「翔さん何も言ってこないから……このまま、なかったことになるんだと思ってた」
あり得ないと思いながら、全部妄想だったんじゃないかと考えたりもした。
「……聞くけどさ、俺がもし何か言ったらお前どうしてた?」
自分に向けられた眼差しに、胸の奥が締め付けられる。この目に見られるといつでも少し緊張した。
想像していた櫻井は、何かあれば力になるからとその後も煩いくらいに自分を気にかけてくるはずだった。
放っておけるわけないだろと、払っても払っても手を指しのばしてくる、そんな彼を想像していた。
そしてもしそうされたなら、自分は、
「お前、逃げただろ?」
見透かしたような言葉に心臓が跳ねた。
伸ばされた櫻井の手を取ることもなく、彼への想いに蓋をして、二度とあの夜のように彼を頼るつもりはなかった。それを逃げると言うのなら、確かに櫻井の言う通りだ。
「下手に遠ざけられたりしたら、多分こんなふうに話もできないと思ったんだよ。俺、そんなの嫌だったからさ」
「……話って」
「松本さんに色々分かってもらうためのお話。な、お前あの時後悔しないって言ったけど、結果どうだったよ?」
なぜ櫻井がそんなことを聞いてくるのか解らない。
だけど、そもそもあの時の言葉自体が松本にとっては偽言でしかなくて、あの時点でどうあがいても後悔のない未来はなかった。衝動的に彼の前で腕を咬んだあの瞬間から。
それでも、覚悟は決めていた。
後悔も全部背負って、それでもいいと思ってあの夜櫻井を抱いた。
「無理だっただろ。そもそも俺が何を言おうが信じる気もなかった、違うか?」