○「桜田」の名は頼朝寄進の田んぼから

「桜田門」「霞ヶ関」「霞町」「桜田通」などといった、こんな有名な名前が何に由来しているのかご存じだろうか? たぶん訪れたらびっくりするくらいの、今ではすっかり小さくなってしまった神社に由来しているのだ。江戸時代の初期頃からほぼ同じ場所に鎮座しているのだが、当時は「観明院勧妙寺 霞山稲荷」、今は「櫻田神社」と呼ばれている。今では、日本人の参拝客よりも外人さんの観光客のほうが、多いくらいこじんまりしてしまった社であるが、源頼朝が創建に関わっているほど古くからのお宮である。元々は、今の霞ヶ関付近にあり、頼朝から寄進された田んぼの畝に桜を植えたところ、年々桜が生い茂り自然と「桜田」と呼ばれるようになったものだとか。狩りをしていた頼朝たちが、矢で射った野狐を追って、今の霞ヶ関にあった「霞山」へやってきたところ、白狐の口から十一面観世音が立ち上るように現れ、お告げをした。頼朝は狩りを中断して、家臣に言いつけダキニ天と十一面観世音を祀って社を建てた、というのが始まりである。江戸城の拡張に伴い、溜池に、その後今の六本木付近に移転した。そのため、江戸城のそばと現在地に由縁の地名などが残ったというわけだ。
○歴代の勝負師に信心されたお宮

頼朝が創建したこのお宮には、太田道灌が甲冑を寄進し、幕末には沖田総司が参拝、乃木希典将軍は産着を奉納(現在は乃木神社に移されている)したそうである。硫黄島で玉砕した金メダリスト・バロン西 大佐や、現在のJRAも氏子なのだそうだ。
戦や勝負の有名どころの名前が、ぞろぞろ並ぶまるで超大型の神社のようだ。
もちろん、江戸時代の観光案内書である「江戸名所図絵」にだってしっかり掲載されている。もともと「ダキニ天」は、勝ち負けの神さまではないにも関わらず、「出世」や「勝ち運」を授けてくれるとして武士たちの間でかなり信心されていた神さまである。「ダキニ天」は仏さまであるため、明治の神仏分離例の際、伊勢の神さま(外宮)・「豊宇迦能賣大神」(トヨウケビメ)に変わっている。例に漏れず一緒にあった観明院勧妙寺は廃寺になった。お地蔵さまはすぐそばにある「正光院」に移されたらしいが、十一面観世音はどこに移られたのだろう…。

さて、新しく祭神となったトヨウケビメは「稲荷神」ではない。櫻田神社にあった稲荷はというと、本殿向かって右側の社に「福壽稲荷」が鎮座している。この社には港七福神の壽老神が祀られている。はて、福壽神なら「福録壽」なのでは?と思ったりもするが、明治になった時点で、神さまシャッフルが急激に起こったため、いろいろ混乱も起こったのだろう。櫻田神社の最強神さま列伝は終わってしまったのかもしれない。とは言え、その後だって、この神社の氏子だったバロン西こと西竹一さんはロスオリンピックの馬術で金メダルを取ったし、乃木将軍だって神さまとして祀られるほど戦果を上げた軍人である。しかもJRAに至っては負け知らずの強さを誇っている。弱ったとはいえ、「勝負」祈願に掛けては実績が物語っている。その上、「福壽神」と言えば、何と言っても、最強のツキを持った女性・桂昌院が大変信心した神さまでもあるわけだし(「柳森神社」の回をご参照の事)。

そういう歴史を知ってか知らずか、この神社には外人さん(特に西欧人っぽい人)たちの参拝が多い。もちろん六本木という場所柄にもよるのだろうが、ロンリープラネットの日本版か何かに「God give the win」とでも、密かに載っかってるんじゃあないかと疑うくらいの訪問数がある。日本人は結構知らないんだろうなぁー、敷地は小さくなったけれどもかなりの「勝運」を司るお宮だということを。
私にはちょっと確信的に思っていることがある。頼朝伝説のある所は、のちのち歴史的に実績を上げた寺社なので、頼朝の名声を上げるため、社歴中にわざわざ名前を組み込まされているに違いないと。だから寺社の実力は歴史的に証明済みの場所だということだ。裏を返せば頼朝伝説自体は信用ならんと思っているとも言えるのだけれども。