(保存版)あっぱれ!  早田ひなさん =パリ五輪 帰国記者会見の言葉= | 三ヶ根の祈り のブログ

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 パリ五輪 卓球女子 銀・銅メダリスト、

早田ひなさんの凱旋帰国記者会見での発言に感激した!

 

 

(会見場の早田ひなさん <8月13日> 日刊スポーツより拝借)

卓球】早田ひな3つのやりたいこと「鹿児島の特攻資料館 ...

 

 

 記者から「オリンピックが終わって、これから何をしたいですか?」と問われると、

何と、「アンパンマンミュージアムと特攻資料館に行きたいです。」と答えたのだ。

 

 

  記者会見での注目発言の場面(RKB毎日放送ニュースより )

 

 

 ちなみに、彼女の言葉を文字で記すと👇

 

 「行きたいとことしては、ひとつは、アンパンマンミュージアムで、

ポーチをちょっと作りたいなと思っているのと、

後は、鹿児島の特攻資料館に行って、

生きていることを、そして、自分が卓球を当たり前に出来ているっていうことは、

当たり前じゃないっていうのを、感じたいなぁと思って、

行ってみたいなぁと思っています。」

 

 

 

 何の気負いもなく、淡々とした口調で語る早田さんは

オリンピックという最高の舞台で、決勝戦まで上り詰めた。

 

 

 

(卓球女子団体決勝戦の模様 =日テレスポーツより拝借= 動画時間59秒)

 

 

 

 彼女には、卓越した技能と、群を抜くフィジカルの強さに加えて、

自身の精神面を支える力があったことが、この会見での言葉で伺い知ることができた。

 

 

 

 早田さんは、

特攻資料館に行って、生きていることを、

そして、自分が卓球を当たり前に出来ているっていうことは、

当たり前じゃないっていうのを、感じたいなぁ」と語った

 

 

 

 思うに、この言葉は、特攻そのものについては、肯定も否定もせず、

彼女とほぼ同じ年頃で特攻に駆り出されて亡くなられた、

5000名余りの、当時の若者たちの置かれた環境や境遇に思いを馳せ、

今を生きる自分自身の環境や境遇がどれほど恵まれているかを、

資料館に行って、肌で感じ取ってみたいと言う正直な気持ちと、

 

 

 

 さらに「当り前じゃないっていうのを・・・」という言葉に、

自分もその恩恵を受けている、今の日本の平和や繁栄や自由が、

何も苦労せずに、当たり前のように天から与えられたものではなく、

特攻隊を初めとする膨大な戦争犠牲と戦後日本人の献身的努力によって

もたらされたもの、と言う思いを込め、

 

 

 

 早田さんは、特攻隊員たちへの、

感謝の気持ちを率直に示されたように思えてならない。

 

 

記者会見で答える早田さん(ネットより拝借)

画像・写真 | 【パリ五輪帰国会見】“銀メダル”卓球女子団体 ...

 

 

 

 

 記者会見があったのは、ちょうどお盆の最初の日である8月13日。

この日は、ご先祖をお迎えする「迎え日」。

 

 

 

 お盆で、霊界から戻って来られた数多くの戦没者英霊にとって、

パリオリンピックでの日本人の活躍と、記者会見での早田さんの言葉は、

最高のプレゼント(=お供え)になったことだろう。

 

 

 

 

 さて、お盆の三ヶ根である。

 

 

 

 「終戦の日」の8月15日・16日・17日と、

慰霊園の清掃奉仕のため三ヶ根に出向いた。

 

 

 

 三ヶ根の戦没者慰霊園は、今が盛りと、ここかしこに白ゆりが咲き乱れている。

 

 

                       (撮影:令和6年8月16日)

 

 

 

 

 

 

 私たちの奉仕会では、8月10日に三ヶ根観音本堂で、

終戦慰霊法要をさせて頂いているので、

15日には、特に催しなどは実施していない。

 

 

 

 15日は、落ち葉の片付けや草とり、植栽の剪定作業の他、

掲示板の資料が、夏の強い日の光を受けて変色してきたため、

同一内容の新しいものと交換した。

 

 

                       (撮影:令和6年8月16日

 

 

 掲示は、弱冠23歳の学徒出身特攻隊長として、

1945年5月、沖縄航空特攻に出撃し、

見事! アメリカ軍の空母エンタープライズに突入・大破させた

故富安俊助さんに関するものだ。

 

 

 

(在りし日の富安俊助さん)

tomiyasu.jpg

 

 

 

 掲示板には、彼のお写真や、アメリカ軍が撮影した空母突入時の写真、

また、同じ日に、航空特攻で戦死された方々の御名前などを掲示させて頂いている。

 

 

 

 

 ところで、特攻出撃された方々の年齢は、20代の方が大半だが、

少年飛行兵などという名称を付与されて特攻に駆り出された、

10代後半の方も多かった。

 

 

 

 このブログでも時々取り上げさせて頂いている「陸軍少年飛行兵第十期生」は、

800余名の卒業生のほとんどが特攻に駆り出され、10代後半で出撃し、

大半が亡くなられている。 

                     👇

 

 

 

 「陸軍少年飛行兵第十期生」のお一人、久保昌明さんのお名前も、

顕彰碑脇の銅板プレートに刻まれている。

 

    👇

 

 

 

 

 久保さんは、昭和19年(1944年)秋、

陸軍航空特攻の第1号として、フィリピン・レイテ湾の米軍艦に突入された。

 

 

 

 享年19歳だった。

 

 

(特攻出撃直前の写真 向かって右から二人目が久保さん)

             👇

 

 

 

 「十死零生」の特攻に粛々と出撃され亡くなられた、

富安さんや久保さんたち特攻隊員の心の内を推し量ることは、

私には中々できない。

 

 

 

 が、これだけは真実だろうと思われるのは、

彼らは、強じんな精神力で全てを呑み込んだ上で特攻機に乗り込み、

自分の死が、残された肉親や知人、そして将来の日本を担う人々の、

より良い生に繋がることを祈りながら、死んで行かれたということ。

 

 

 

 戦後生まれの私たちは、

そうした彼らの最後の願いを、真摯に、謙虚に受け止めながら、

毎日を活き活きと生きることが努めであろう。

 

 

 

 今年24歳になられた早田ひなさんは、

英霊たちの思いを正しく受け止めて、毎日を、活き活きと生きておられる!

 

 

 

 自戒を込めて言うが、私たち中高年は、早田さんに学ばねばならない。

 

 

 

卓球】早田ひな3つのやりたいこと「鹿児島の特攻資料館 ...

 

                    拝