「ああ、モンテンルパの夜は更けて」で、戦没者のご冥福をお祈り(7月29日) | 三ヶ根の祈り のブログ

三ヶ根の祈り のブログ

ブログの説明を入力します。

 連日の猛暑の中、ほぼ一週間ぶり、

7月29,30の連日、三ヶ根に奉仕作業に出かけた。

 

                           (撮影:令和6年7月29日)

 

 

  テレビを点ければ、アナウンサーが、

「熱中症になるので、不要不急の外出や戸外作業を控えるように」と繰り返している。

 

 

 

  思えば、戦没者慰霊園の、草とり・剪定作業などは、

「不要不急の外出・戸外作業」の最たるものかもしれない。

 

 

 

 が、旧盆を翌月に控えたこの時期、

「戦没者慰霊碑に、草や枝が繁茂して汚れるのは申し訳ない!」

との思いが勝って三ヶ根に向かう。

 

 

 

 「この暑いのに・・・、私が建てた慰霊碑でもないのに・・・・」😖

 

 

 

 正直、そんなことも時には思うが、

それでもご奉仕は、今年で10年を越した。

 

 

 

 

 

 この日(7月29日)、

慰霊園に停めた車の温度計が示す気温は36度。

 

 

 

 作業をしていると汗だくにはなるが、

三河湾に向って吹き抜ける風によって、それほどの不快感は無い。

 

 

(この日は、渥美半島の先端部や半島越しに太平洋も一望    撮影:同上)

 

 

 

 

 この日(29日)、奉仕作業を終えた夕刻、

三ヶ根観音戦没者慰霊園内の「比島観音霊場」で、

渡辺はま子歌う「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を流し、

フィリピン戦域の戦没者のご冥福をお祈りさせて頂いた。

                                                    👇

 

 

(演奏時間:7分09秒・・・動画では音量は小さめになっている。)

 

 

 

 

(比島観音霊場                          撮影:同上)

 

 

 

 実は、前日の28日夜、たまたまテレビのチャンネルを回していたら、

テレビ東京で「昭和歌謡 渡辺はま子 波瀾の歌人生~戦争と向き合った魂の歌声~」を

放送していたので、そのまま最後まで番組を視聴した。

 

 

(渡辺はま子さん =1910~1999=ウイキより拝借)

 

 

 この番組を見るまで、渡辺はま子さんについては、

戦前から戦後にかけて、正当派昭和歌謡の歌い手として

一世を風靡していたこと くらいの知識しか私にはなかった。

 

 

 それでも三ヶ根で時々流す昭和歌謡のCDの中には、

渡辺さんの「支那の夜」や「ああ、モンテンルパの夜は更けて」なども入っていて、

彼女の澄んだソプラノの歌声には聞き惚れていたと言って良い。

 

 

 

 実は、28日の番組で、渡辺さんが、戦中戦後問わず、

積極的に戦地や外地に出かけて、

日本軍兵士の慰問活動に勤しんでおられたことを初めて知った。

 

 

 

 中でも、昭和27年(1952年)12月25日、

苦労の末に、フィリピンのモンテンルパ市にあった日本人戦犯収容所を訪れ、

死刑囚を含む100名余の収容者の前で、

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌い、収容者全員で合唱したことが、

彼女の慰問歴の中でも最大の事績とされていることを知った。

 

 

 

 この時の写真や録音テープが残されていて、

そのシーンには、私も思わず熱いものが込み上げて来た。

 

 

 

モンテンルパ市のビリビット収容所 ウイキより)

 

 

 以下は、渡辺はま子さんがモンテンルパの収容所を訪れた経緯。

 

 

 ①昭和27年(1952年)1月、来日したフィリピンの国会議員から、

戦後7年経ってもなお、モンテンルパの収容所に、

死刑囚を含む100名以上の日本人が収容されている事実を聞いて驚き、

渡辺さんは収容所に手紙を送られた。

 

 

 ②同年6月、渡辺さんの元に収容所から手紙が届き、その中に、

収容者の一人が作った詞に、別の収容者が曲を付した楽譜が同封されていた。

 

  作詞者は代田銀太郎氏(元陸軍少尉)、作曲者は伊藤正康氏(元陸軍大尉)

 

  いずれも、元「比島憲兵隊」の所属で、当時は戦犯死刑囚。

 

 

 ③渡辺さんは、日本でレコード化することにより、

国民の、モンテンルパ収容者への関心を高めると共に、

当時国交のないフィリピンへの慰問渡航を企図し、

苦心の末、同年12月25日に収容所への慰問を実現された。

 

 

 

 

 実は、作詞者の代田銀太郎氏と伊藤正康氏が所属した「比島憲兵隊」の慰霊碑が、

三ヶ根の「比島観音霊場」にある。            👇

 

(「比島憲兵碑」                          撮影:同上)

 

 

 

 「比島憲兵碑」の裏面に、「ああ、モンテンルパの夜は更けて」の歌詞と共に、

作詞者、代田銀太郎氏の筆による頭文が刻まれている。      

                           👇

 

 

 

  代田氏の頭書

 

 「マニラの南 モンテンルパの丘に立つ刑務所の独房に、

 

  大東亜戦争終結後 拘禁されて戦犯死刑囚でいた1952年、

 

  教誨(きょうかい)師 加賀尾秀忍師に言われて作詞、

 

  同囚 伊藤正康が作曲、歌手 渡辺はま子と宇都美清が歌った。

 

 

  モンテンルパに残された日本人戦犯者全員を釈放したキリノ大統領も

 

  この曲を聴いている。

                       代田銀太郎 記す 」

 

 

 

 碑誌に、最終の復員(日本帰還)が、昭和28年7月22日とある。

 

 

 この時復員したのが、代田氏や伊藤氏など、モンテンルパの収容者だった。

 

 

 不肖、私の生年月は、昭和28年(1953年)1月。

 

 

 渡辺はま子さんや加賀尾教誨師が、

モンテンルパの日本人収容者の釈放を求めて奔走されていた時期に、

私はこの世に生を受けた。

 

 

 

 私が生まれた時は、まだまだ戦争の傷跡に呻吟していた時代だったことに

改めて気づかされた。

 

 

 この7月28日夜のテレビ番組の中で、三ヶ根の「比島憲兵碑」にも繋がる

渡辺はま子さんの奔走と、「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を聴き、

何か三ヶ根の英霊方に呼ばれたような気にもなった。

 

 

 そして、テレビ放映の翌29日、暑い最中ではあったが、三ヶ根奉仕に出かけ、

比島観音霊場で、渡辺さんの「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を流させて頂き、

フィリピン戦域で亡くなられた戦没者のご冥福をお祈りさせて頂いた。

 

 

 私の場合、これは「不要不急の外出」などではない!

 

 

 

 「ああ、モンテンルパの夜は更けて」

 渡辺はまこさんが元収容者たちの前で歌ったライブ公演動画  ~ネットより拝借

                 👇

 

(演奏時間:4分02秒)

 

 

(比島観音像)

                    合掌