(保存版)大河ドラマ「どうする家康」番外編  =石川数正が懇請した本多正信の帰参=  | 三ヶ根の祈り のブログ

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 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、ここ1~2回、

石川数正(配役:松重豊)を巡る場面が続いた。

 

 

 1月の放送開始直後から、このドラマの脚本の悪さ、役者の演技の拙さが鼻に付き、

ずっと見ていなかったが、ここに来て、石川数正の「出奔シーン」があるというので、

久しぶりに視聴してみる事にした。

 

 

 数正は、徳川家の筆頭家老にありながら、家康の城下岡崎から出奔し、

豊臣秀吉の下に走った「寝返りの家老」として知られる。

 

 

 ドラマでは、出奔に際し苦渋に満ちた数正の姿を、松重さんが好演していた。😊

                   👇            

                             (写真はネットより拝借)

 

 

 

  一方、松山ケンイチさんが演ずる本田正信も出て来たが、

「自己顕示欲の強い、訳知り顔の軽量キャラ」を際立たせる役柄になっており

何かと違和感を覚え、腹立たしささえ感じた。😖

 

(松山ケンイチ演ずる 本多政信    写真はネットより拝借)                

松山ケンイチ|人物|NHKアーカイブスの画像

 

(本多正信 肖像画 ウイキより拝借)

 

 

 もちろん、これは松山ケンイチさんが悪いのではなく、

ドラマの本多正信の描き方(=脚本)が悪い!

 

 

 実は、ドラマを見ていて、ふと思ったのは、ドラマの内容についてではなく、

拙宅の位置と、石川数正の生地、それに本多政信の生地を直線で結ぶと、

この3者は、どんな位置関係になるのだろうか?という疑問だった。

 

 

 今の住所で言えば、数正は、安城市の生まれ、

正信は、安城市の東隣りの岡崎市の生まれ、

拙宅(小生の生地)は、安城市の西隣の高浜市だ。

 

        👇

愛知県:安城市地図 - 旅行のとも、ZenTech

 

愛知県:安城市地図 - 旅行のとも、ZenTech

 

 

 インターネットのグーグルアプリを使い、

地図上で、3カ所を直線で結んで見たところ、面白い発見があった。

 

 

 石川数正の生地は、今の安城市小川町内にあり、

本多正信の生地は、今の岡崎市針崎町・土呂(とろ)地区にある。

 

 

 何と! 拙宅の位置と数正の生地、正信の生地とが、

地図上で、ほぼ一直線に結ばれていたのだ! 

                  👇

 

 

 数正の生地、安城市の小川町は、拙宅からは直線距離で7キロ余り、

車で10分程度で行ける近い場所。

 

 更に、数正の生地から、正信の生地、岡崎市の針崎町・土呂地区までは、

約5キロの近さだ。

 

 

 

 と言って、

「自宅の位置と、石川数正の生地、本多正信の生地が、ほぼ一直線で繋がっていることに、

何か意味があるの?」と尋ねられても、正直、何も答えようは無い・・・。

 

 

 しかし、何となくワクワクする。😊

 

 

 これまでの慰霊活動の中で、

この世には、3つ以上の有縁(うえん)の地が、

直線的に結ばれるレイラインと言う不思議なものがあることを知った。

 

 今回の直線も、石川数正と本多正信との間の、知られざる深い縁(えにし)、

そこに小生も、ひょっとして何か絡んでいるのかもしれない・・・・。

そんな予感がしたのだ。

 

 

 以下は、小生の見立てである。(但し歴史的な検証は、今後を期する所多し😉)

 

 

 (1)加賀に隠棲していた本田正信に帰参を懇請したのは、石川数正だったのではないか。

 

 「数正は、1582年6月の本能寺の変後、

秀吉の台頭と脅威を肌で感じ、

徳川を守るためには、遠くない将来、筆頭家老である自らの身を犠牲にする

(=出奔して秀吉の人質になる)しかない と、

覚悟を決めていたのではないか・・・。

 

 それ以前から、自分が徳川家から居なくなった後、

家康を支えられるだけの政治的なセンスを有する者が、

家臣団に見当たらないという現実に苦慮していたことだろう・・・。

 

 その結果、三顧の礼を以ってしても、

家康の下に迎え入れなくてはならぬと思い定めた人物が、

その20年ほど前、三河一向一揆の終結後に、

岡崎から「出奔」した本多正信だった!」

 

 

 

 三河の一向一揆の後、岡崎を出奔した正信が、

畿内の有力大名(松永弾正久秀)の客人として厚遇されたり、

加賀の一向一揆を指導して地元大名と互角に戦っているという情報は、

当然、岡崎に居た数正の耳にも入ったことだろう。

 

 

 三河の一向一揆の後、

家康から、一揆の一大拠点となっていた正信の生地、

針崎・土呂の行政を任された数正は、その地で、

正信の優れた才知について聞かされ、

改めて、正信の非凡さを認識したことだろう。

 

 

 正信が、岡崎を出奔した後、

10数年の間に、畿内や北陸で令名を高めている様子を、

数正は刮目しながら、見守っていたはずだ・・・。

 

 

 数正は、こうした正信への篤い思いを家康に告げ、

家康も、三河の一向一揆での、正信へわだかまりを棚上げにして、

正信の徳川家帰参を承諾したのではないか・・・。

 


 こうして、徳川家重臣の一人、大久保忠世を使者に立て、

加賀の山中温泉村で隠棲していた正信(この時44歳)に、

徳川帰参を懇請したものと思われる。

 

 

 大久保忠世は、正信の出奔後、約20年の間、

その妻子を養ってくれていたと言う。

 

 

 正信の心の内を忖度すれば、加賀の一向一揆が終結して、

隠棲した自分が、再び岡崎の地に帰ったり、

「表の世界」に出る事はないと考えていた可能性が強い。

 

 

 隠棲中、子まで設けた温泉村の女性と共に、

村の家を終の棲家として、静かな余生を送ろうとしていたのではないか・・・。

 

 

 そうした平穏な生活が5年ほど続いていた、1582年のある日、

突然、恩人たる大久保忠世がやってきて、徳川家帰参を懇請したことは、

正信にとっても、又、一緒に暮らしていた山中温泉村の家族にとっても、

驚天動地のことであっただろう。

 

 

 自分を高く買ってくれる石川数正の熱誠や、家康の優しい心情に、

激しく心を揺さぶられた正信も、岡崎に帰参した後、

重臣たちからの風当たりが半端ではないだろうこと、そして、

それは我慢するにしても、山中温泉村に残すことになる、現地の妻と子供たちを

これから一体どう育てて行ったらよいか・・・・。

 

 正信の心は、かきむしられる様だったに違いない・・・と想像する。

 

 

 しかし、最終的に正信は、大久保忠世の説得に応じる形で、

自身の人生に最後のひと花を咲かせるべく、岡崎帰参を決心した。

 

 

 正信の岡崎帰参の後、1584年11月、数正は岡崎を出奔し、

自身の身を秀吉に差し出して、歴史の表舞台から退いた。

 

 

 その後の目を見張るばかりの徳川家康の活躍ぶりは周知のとおりであるが、

その裏には、後世、「智謀湧き出づるが如き」と言われた、

正信の献身的な働きがあった。

 

 

(関連年譜)

 1564年    三河一向一揆が終結。

          本多正信 岡崎を出奔し、畿内・北陸へ

 

 1582年6月  本能寺の変 

 

  同年      本多正信 徳川家に帰参

 

 1584年3月

    ~11月  小牧・長久手の戦い

 

 1585年11月 石川数正 岡崎を出奔して豊臣秀吉の家臣に

 

 1586年    家康上洛し、秀吉に臣従

 

 1590年    石川数正 松本城主として城を大幅改築

 

 1592年    石川数正死去(60歳)

 又は1593年    

 

 1598年    豊臣秀吉死去

 

 1600年    関ヶ原の戦い

 

 1603年    家康 征夷大将軍に

 

 1614年    大坂冬の陣

 

 1615年    大阪夏の陣

 

 1616年4月  家康死去(75歳)

 

  同年  7月  正信死去(79歳)

 

 

(2)(大胆な予想)加賀の山中温泉村に残した正信の子どもたちのその後について

 

 加賀一向一揆の終結後、5年間、正信が暮らした山中温泉村で、

少なくとも二人の男子が生まれたと思われる。

 

 一人は、少年期に徳川の一家臣に養子に出され、その後、大名間を渡り歩いて、

最終的に加賀藩の家老になった本多政重(まさしげ)

 

 ウイキを見ると、政重は、1580年生まれで、

嫡男の正純(1564年生まれ)に次ぐ、正信直系の次男とされているが、

生地や母親の名前が未記載となっている。

(母親が誰だったかは、今に伝えられていないということだろう)

 

 もし、1580年生まれが正しいとすれば、正信は、遅くとも、

1580年の年初には、すでに岡崎に帰参していて、

岡崎で政重を設けたか、あるいは、山中温泉村で設けた政重を、

幼少期に岡崎に連れて来たのか・・・。

 

  このあたりはナゾ。

 

 

 

 もう一人は、長じて、家康の六男、松平忠輝の支配地、

信州川中島と越後高田とで、併せて600石で召し抱えられた本多政勝(まさかつ)

 

 

 政勝は、忠輝に仕官するも、忠輝謹慎のあおりを受けて浪人となり、その後、

正信の故郷岡崎に帰る途中で他界し、その子が岡崎に戻り、山間地に定住。

 

 

 政勝の孫の代になって、本多姓から松山姓に改姓。

西三河の矢作川河口域の新田開発に成功。

 

 

 現在、碧南市を中心に、彼の子孫たちが生活している。

 

 

 因みに、小生の父親の実家は碧南市にあり、旧姓は「松山」。

小生の祖父の代に、松山本家から分家となった。

 

 

 松山本家に代々口伝で伝えられている所は、政勝の父親が正信であることを示唆している。

 

 

 

 

 

 

 (3)石川数正と私の接点

 

 出奔した後の、石川数正の政治的・軍事的な業績・足取りについては、

はっきりとは分かっていない。

 

 と言うより、目立たない存在に徹していたのかもしれない。

 

 ほとんど唯一分かっているのは、信州松本城の城主として城を整備したこと。

 

(国宝 松本城     ネットより拝借)

松本城 - Wikipedia

 

 

 松本市の東の山裾に「兎川(とせんじ)寺」という天台宗の古刹があり、

数正公ご夫妻の御墓がある。👇 

           

          (写真はネットより拝借)

石川数正(いしかわかずまさ)夫妻供養塔

 

 

 小生は、2007年に初めて、海外戦地巡拝に出かけたが、

訪問先のキリバス共和国のタラワ島で、

思いがけず、9柱余りの日本軍兵士のご遺骨に対面し、

そのお気の毒な姿に居たたまれず、ご遺骨の一部を日本に持ち帰った。

 

 日本に持ち帰ったお骨は、当初、

小生が当時単身赴任していた松本市内のアパートに安置させて頂いていたが、

ある方から、この兎川寺をご紹介頂き、お骨のご供養と共に、

翌年初、厚労省がキリバスに遺骨収容団を派遣するまでの間、預かって頂いた。

 

 

 その時初めて、この兎川寺に石川数正の御墓があることを知った。

 

 

(松本市の「兎川(とせんじ)寺」  拙著「私の海外戦地巡拝 六年間の軌跡」より)

 

 

 兎山寺の近くに、有名な美ヶ原温泉がある。

 

 

 この美ケ原温泉に、「和泉屋善兵衛」という湯宿があり、

4年前、たまたま ここに初めて泊った。

 

 

 ネットで紹介されていたお風呂の感じが良さそうだったからだ。

 

 

 それと、旅館の名前が人の名前になっていて、ちょっと興味が湧いたこともある。

 

 

(美ケ原温泉「湯宿 和泉屋善兵衛」の貸切風呂    同宿のホームページより)

貸切風呂【山の辺の湯】内湯と露天風呂の2つのお風呂を愉しめる。

 

 旅館の名前の由来は、泊ってみて初めて知った。

 

 

 明治初期開業の温泉宿だが、現在の旅館当主は、第十三代 石川善兵衛さん

 

 

 宿泊した時、当主から次のようなことをうかがった。

 

 

 初代石川善兵衛は、現愛知県安城市和泉町の界隈で生まれ育った人。

第二代の時に、新松本城主(水野氏)の国入りに併せて、松本に居を移し、

酒造りを始めた。

 

 

 旅館業を営むようになったのは、第九代の時。

 

 

 石川善兵衛さんの先祖は、戦国時代、

現在の安城市和泉町から小川町にかけて勢威を誇った石川一族の一員で、

数正は、その家系に連なる人だった!

 

 

 

 (4)小生と、石川数正・本多正信との関りの振り返り

 

 2006年3月 東條英機元首相の令孫 故東條由布子さんとインド訪問。

      4月 安曇野の子会社への出向を命ぜられる。

      6月 松本市内にアパートを借りて単身赴任開始。

         アパートは、石川数正が整備した松本城まで徒歩10分の近さだった。

 

 

 2007年7月 キリバスから持ち帰ったご遺骨の保管を頼みに行った兎川寺で、

          石川数正夫妻の供養塔に出会った。

 

 

 2019年3月 死去した父親の遺品から、

         父親実家<松山家>の始祖(本多政勝)の父親が、

         本多正信である可能性を示唆する、松山本家作成の資料が出てきた。

 

         本多姓から松山姓への、改姓の経緯も資料に記されていた。

 

 

   同年 6月 たまたま宿泊した兎川寺近くの美ヶ原温泉旅館「和泉屋善兵衛」が、

         石川数正ゆかりの宿であった。

 

 

 2020年2月 前年に入会したリゾートクラブの山中温泉の施設に泊った時、

         施設が、本多正信が隠棲していた山中温泉村全体を見下ろすという

         位置にあることに気が付いた。

 

 

 2023年9月 NHK大河ドラマ「どうする家康」の石川数正出奔シーンを視聴。

 

 

   同年 9月 試しに、拙宅の位置と、数正の生地と正信の生地を、

         地図上で結んで見たところ、ほぼ一直線で繋がっていることを発見。

 

         備忘を兼ねて、上記経緯や所見を、ブログに残すことにした。

 

 

 

 

 今後、大河ドラマ「どうする家康」は、石川数正に代わって、

本多正信が家康を支えて、智謀の限りを尽くし、

家康を天下人に押し上げる というストーリ展開になると予測するが、

はてさて、どこまで期待できるか・・・・・・・。

 

 

 

 なお、ドラマで本多正信を演じている松山ケンイチさんと、

小生の父親実家の松山家とは、全く関係がない。😌

 

                  

                拝