昨日、愛知県豊田市にある、故美濃部正(みのべ ただし)さんの墓苑に
お参りさせて頂いた。
美濃部さんは1997年6月に亡くなられたので、
今年は、美濃部さんの没後25年にあたる。
墓苑は、私の自宅から車で30分くらいの所にある。
氏のご冥福をお祈り申し上げると共に、
最近のウクライナ情勢や、
1月末の航空自衛隊田中公司1佐と植田竜生1尉の殉職事故などについても
墓前にご報告させて頂いた。
(令和4年3月17日午後)
美濃部さんは太平洋戦争末期、「特攻」に対して正面から異議を唱え、
「特攻隊」に代わる「夜間航空攻撃隊(芙蓉部隊)」を創設し、
沖縄占領のアメリカ軍を震え上がらせた人として知られている。
(前から2列目、向かって左から3人目の無帽の人が美濃部さん<当時海軍少佐>)
戦後は航空自衛隊の創設に関わり、
特に、アメリカ空軍と航空自衛隊の共同訓練・共同運営体制の
基盤を築いた人としても知られる美濃部さんだ。
(空自時代の美濃部さん<最終位は空将>)
私が美濃部さんのことを知ったのは、ちょうど5年前の今頃だった。
そのきっかけは、石川真理子氏の「五月の蛍」(内外出版)を読ませて頂いたことだ。
この本によって、
美濃部さんが、私の出身高校の先輩だった事や、自衛隊退官後の再就職先が、
私が長年勤めてきた勤務先だったことなどを知り、驚いたことを憶えている。
(日本電装学園<現デンソー工業学園>の学園長時代の美濃部さん)
思い返せば、三ヶ根観音戦没者慰霊園の奉仕活動を始めて、
この「五月の蛍」に出会い、美濃部さんと御縁を頂いたというのも、
不思議と言えば不思議な縁と言えよう。
実は、美濃部さんが航空自衛隊を退官される時、
後輩の自衛官に向けて残された言葉がある。
「昭和元禄の日本自衛隊への警告」というテーマで述べられた言葉だ。
この中に、現在、ロシア軍の侵略を懸命に防いでいるウクライナ軍の将兵たちにも
お聞かせしたい部分がある。
その部分とは、
【 戦争回避の努力は、
国として万難を排して努めなくてはならぬ。
戦いがやむなく起こっても、
国家政策としては、和平への努力を最大限に継続すべきである。
政治が、軍事に優先するも、また当然である。
しかし、戦いの場で自衛戦闘を実施するものは、妥協があってはならない。
ベトナム戦争で、米国、中国、南北ベトナムの戦略・戦闘そのものに、
微塵の妥協もないことを併せ考えるべきである。
前線の将兵が、
間もなく和平であるから危険を避けて攻撃の手を緩めるとすれば、
直ちに大河の決壊する如く、
十年の国家努力も、数十万人の血涙の苦闘も押し流されて、
和平そのものも、逆に破壊されるのが戦争の実相である。
殉国の英魂は敗れてなお国を護る。
いかに戦ったか、いかなる力を発揮する民族性があるかで、
歴史の評価は行われる。
敗れても 敗け方と、その後の対処能力があれば立ち上がるものである。
戦う以上、勝利に向って全力を発揮すべきだ。
この努力、情熱、犠牲心なくして敗れた場合、
和平はおろか、民族は消され、零になる。
和平会談中、最大の犠牲を惜しまず戦い続ける
ベトナム戦の戦争哲理を知らねばならない。 】
美濃部さんの言葉がウクライナの将兵や国民の心に届くことを念じている。
拝