(保存版)海外戦地巡拝の不思議体験 <インド・コルカタ>「届いた東條由布子氏のスーツケース」 | 三ヶ根の祈り のブログ

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 私が海外戦地巡拝を始めたきっかけは、平成18年(2006年)3月.

インド東部のコルカタにあるチャンドラボース記念館を、

故東條由布子さんに誘われて訪問した時、

記念館に掲示されていた、

伊号第29潜水艦の乗務員とチャンドラボースとの記念写真に出会ったことです。

      

 (インド・コルカタのチャンドラボース記念館 )

 

 

 (伊号第29潜水艦乗務員とチャンドラボースの記念写真)

 

 これまで私は、2006年3月のインド訪問以来、

2016年9月のパプアニューギニアのラバウル&ズンゲン村訪問まで、

10年間にわたって、10カ国14回の海外戦地巡拝をしてきました。

 

 海外の戦地や戦跡を巡拝していると、どういう訳か、不思議な体験をするものです。

 

    

 そうした実体験を、自分自身の備忘録として書き記しておくことにしました。

 

 まず最初は、インド訪問とパプアニューギニア訪問で、

同行者のスーツケースが行方不明になったという出来事です。

 

 行方不明になっていたスーツケースが、思いがけず届いたことと(インド)と、

見当違いの場所に運ばれて届かなかったこと(パプアニューギニア)がありました。

 

 今回は、”届いた方”の「インド訪問」の話です。

 

 

 2006年3月のインド訪問の時、

東條由布子さん(故人)の、式服などが入ったスーツケースが、

途中、タイ・バンコクでの国際線乗り継ぎの際に紛失(行方不明)して、

ちょっとした騒ぎになりました。

 

 この時のインド・コルカタ訪問は、

「第2次大戦後のインド独立は、大戦中、当時の日本首相 故東條英機氏が

 物心両面でインドを支援してくれたお陰である。」として、

 戦後60年目の節目に、チャンドラボースの親族が館長を勤める

「チャンドラボース記念館」の主催で、

 故東條英機氏への感謝の式典が開催されることになり、

 英機氏の実孫である由布子さんが招かれ、

 私も 由布子さんに誘われて同行させて頂くことになったものです。

 

 

 私は、その2年ほど前、三ヶ根山の「七士廟」へのお参りが機縁で、

由布子さんとの面識を得ていました。

 

 初めて由布子さんに接した時の印象は、物腰の柔らかい

大変上品でお優しい方というものでしたが、それは、

2013年2月にお亡くなりになられるまで、変わることがありませんでした。

 

 

 普段の由布子さんは、NHKに勤務されておられたご主人と、4人のお子さんに囲まれ、

家事に多忙な、ごく普通の主婦、という感じでしたが、

主婦業の傍らで、太平洋戦争の戦没者の遺骨収容活動や、

祖父の東條英機氏の顕彰活動に力を入れておられた関係で、

「硬派女性」と言ったイメージが出来上がってしまったのかもしれません。

    

 

 英機氏の顕彰活動は、東條家の親族からさえ、中々支持を得られなかったようですが、

由布子さんが、強い信念に基づいて、

活動を進めておられたのはご立派なことと思っていました。

 

 

 私は、由布子さんが、自らパラオのぺリリュー島に赴き、

洞窟の中に眠る戦没兵士のご遺骨を収容されているのを知り、

太平洋戦争の結果に対して、真摯に向き合っておられる、

その御姿に敬意と好感を抱きました。

 

 

 一方、東條英機氏のことについては、戦争指導者としての英機氏について、

どうしても厳しい見方をし、良く思わない私に対して、

由布子さんは、英機氏の家庭的な一面を、懐かしく語って下さったことを覚えています。

 

 

「  でもね。祖父は、私には優しかったのよ。  」

 

 幾度も この言葉を由布子さんから聞いた記憶がありますが、

この言葉が、生涯を通して英機氏の顕彰を続けられた由布子さんの、

その信念の拠り所であったような気がします。

 

 (東條英機氏と勝子夫人の間にいるのが由布子さん <昭和16年>)

       (ウイキペディアより )

    

 

 

 さて、行方不明となったスーツケースですが、

同行していた私の勤め先のインド子会社の幹部で、日本出張からインドに戻る途中、

たまたま同行してくれた元同僚が、随分航空会社に掛け合ってくれたものの、

相手は顧客サービスの悪いことで定評のあるインドの国営航空会社、 

中々埒が明かなかったため、気丈な由布子さんも、気を揉んでおられたようでした。

 

 

 しかし、そんなことはおくびにも出さず、記念館のクリシュナボース館長との

懇親の場に出られました。

 

(記念館前の東條由布子さん 平成18年(<2006年3月> 以下同じ)    

 

 (クリシュナボース館長との懇親会 =目録を手渡しているのが私=)      

       

 この席で、由布子さんからクリシュナさんへ、

昭和18年(1943年)10月に東京で開催された

「大東亜会議」の記念写真👇が贈呈されました。

 

 この写真の一番奥まったところに東條首相(当時)が、

そして写真の右側手前の方にチャンドラボース氏が見えます。

  

 この会議の写真、特別に引き伸ばした大型の写真で、スーツケースに入らず、

それが逆に奏功して、この場で贈呈することが叶ったものです。

 

       

 懇親会も終わり、いよいよ記念式典が迫ってきたその日(インドは休日)の夕方、

式典開始の直前になって、思いがけず、空港から、

”スーツケースが今届いた(出て来た)”という連絡が入ったので、

由布子さん初め、同行者一同 ホッと胸をなでおろしたことを覚えています。

 

 

 ルーズで鳴る(!?)インドの国営航空会社が、しかも当日が休日であるにも関わらず、

何故、バンコクから航空荷物を運んで来れたのか、或いは 探し出せたのか、

今だに不思議でなりません。

 

 

 大勢のコルカタの人々が集まる式典に、

もし用意した礼服を着ずに臨まざるを得なくなった時の情けなさと面目なさは、

きっと由布子さんには、耐えがたいものがあったでしょうが、

式典直前にスーツケースが届いたことにより、

何事も無かったように、正装姿の由布子さんが、

式典会場に集まったコルカタの人々の前に現れ、大きな拍手で迎えられた時は、

    

同行の私たちも、安堵と共に、決して大げさではなく、

「日本人としての誇り」を感じた一瞬でした。

 

 (式典の一コマ)    

        

        

        

 この式典の模様は、

拙著「私の海外戦地巡拝 六年間の軌跡」(2013年4月刊)に書かせて

頂いていますが、由布子さんとクリシュナ館長のご挨拶は、共に、

インドと日本の揺るぎない歴史の紐帯を認め喜び合うという、格調の高いものでした。

 

 後になって、この日 奇跡的にスーツケースが届いたのは、

ひょっとして、昭和18年(1943年)4月、日本の支援を求めるため、

ドイツからアフリカ東岸のマダガスカル沖まで、はるばる大西洋を渡って、

ドイツの潜水艦でやって来たチャンドラボ-スを、その海上で移乗させ、

インドネシア・スマトラの日本海軍基地まで無事お連れした、

日本海軍伊号第29潜水艦(昭和19年7月に沈没)乗組員(英霊)の、

お力(霊力)が働いたのではないか、そんな気がしてまいりました。

 

 

(ドイツ海軍潜水艦から伊号第29潜水艦に移乗したばかりのチャンドラボース)

  =日本の乗組員たちが、ドイツ潜水艦に別れの手を振っています。=

        

 

 (インドネシア・スマトラの日本海軍軍港に到着した時の記念写真)             

 

 伊号第29潜水艦の英霊は、

60年前、自分たちが命懸けで送り届けたチャンドラボースが、

最後の拠り所として必死に頼った、当時の日本首相 東條英機氏、

その孫娘の由布子さんが招かれた栄えある式典には、

どうしても彼女に、堂々と正装姿で出て欲しい、

英霊はそんな気持ちを強く持たれたのではないか、

その目に見えない力が、スーツケースの式典直前到着という奇跡を

もたらしたように思えてきたのです。(科学的な根拠はありませんが・・・。)

 

 

 伊号第29潜水艦は、

チャンドラボースをスマトラの日本海軍基地に無事送り届けた後、

一旦、呉の海軍基地に戻り、その年(昭和18年)の末に、再び出航して、

ヨーロッパの、当時ドイツ占領下のフランスにある軍港との間を往復するという

大業を成し遂げました。

 

 

 しかし、その帰り道、シンガポールで重要書類をおろした後、

日本に帰還する途中の昭和19年(1944年)7月26日、

フィリピンと台湾の間(バシー海峡)で、アメリカの潜水艦と交戦となり、

善戦むなしく、最期の時を迎えることになりました。

 

 乗員106名が尊い戦死を遂げられたのでした。

 

 

 実は、このインド訪問から8年経った平成26年(2014年)の春、

思いがけないことに、伊号第29潜水艦の艦内で編集発刊された艦内誌(文集)が、

私の隣市の碧南市のS氏(私と同姓)のお宅で発見されたのです。

 

 後に、日本に現存するものは、この1冊しかないことが判明した貴重な文集です。

 

      

 (Sさん宅で発見された、伊号第29潜水艦の艦内文集「不朽」の一部)

 

(この文集の「発見」を伝える、当時<平成26年7月25日>の新聞記事)

 

 

 不思議だったのは、この艦内誌がS氏の自宅で発見されたのが、

伊号第29潜水艦が撃沈されてから、ちょうど70年目の節目の年である、

平成26年(2014年)の春だったこと、しかも、

拙著「私の海外戦地巡拝 六年間の軌跡」(2013年4月)発刊の1年後という時期、

さらに驚いたのは、何といっても、現存唯一の艦内誌が、

私の自宅のすぐ隣の市である碧南市内で発見されたということでした。

 

  過去の戦争のことが、今の時代に、

 このように具体的な形で、しかも、身近なところで、

 次々と繋がってくるということは、

 本当に偶然なのでしょうか!?

      

 このかけがえのない貴重な伊号第29潜水艦の艦内誌は、

2014年という、艦沈没後70年という節目の年に、思いがけず、

私の隣市で発見されました。

 

     

 こうした不思議な出来事が連鎖的に起きた事から、その8年前の2006年の春、

今は亡き東條由布子さんに誘われて訪問させて頂いたチャンドラボース記念館で、

「届くはずがない」と諦めかけていた由布子さんのスーツケースが、

式典の直前になって届いたという事実について、

この潜水艦の戦没者百余名の英霊のご加護によるものではなかったかという思いが、

確信に近いものに変わりました。

 

    

  改めて、

 2013年2月に亡くなられました故東條由布子さん

 (本名:岩浪淑子<いわなみよしこ>さん)、並びに、

 伊号第29潜水艦乗務員の諸霊位に対しまして、

 心より ご冥福をお祈り申し上げます。

 

(チャンドラボース記念館内を案内される故東條由布子さん<2006年3月>  

 

 

伊号第29潜水艦の戦績と戦没者106名の御名前<拙著からの転載)>        

  

     

 

      艦内誌発見にまつわる不思議な出来事については、

     また別の機会に記させて頂こうと思っています。

 

                   合掌