(保存版)陸軍特攻隊 上原良司さんの慰霊碑 再巡拝記  | 三ヶ根の祈り のブログ

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 10月27日、長野県北安曇郡池田町の「あづみ野池田クラフトパーク」を訪ねました。

 

 陸軍航空特攻隊「上原良司さん」の慰霊碑を、3年振りに再巡拝させて頂くためです。

 

 先回のお参りは、2017年の9月初旬でした。

 

 残暑が厳しい中、

近くのブドウ園の葡萄を買い込んで、慰霊碑前にお供えしたことを覚えています。

 

 

 今回は10月末で、ブドウは元より、

慰霊碑周りの花もほとんどなくなってしまっていました。 

 

 しかし、クラフトパークの山側斜面の木々は、

今が盛りと美しい紅葉に彩られていました。

 

 

 早速、このドーム形をした慰霊碑に向って合掌させて頂きました。

 

 

 慰霊碑の真ん中、正面彼方に見える山は、

上原さんが育った有明町のシンボルである有明山(ありあけさん)です。

 

 ここに到着したのは午後0時15分頃でしたが、

残念ながら有明山の山頂は、雲に遮られて眺めることが出来ませんでした。

 

 

(上原さんの慰霊碑①  撮影時刻 午後0時19分)

 

 慰霊碑の碑文を読ませて頂くと、いつも背筋がピンと致します。

 

 きけ わだつみのこえ

   

自由の勝利は

明白な事だと思います

 

明日は自由主義者が

一人この世から

去って行きます

 

唯願はくば愛する日本を

偉大ならしめられん事を

国民の方々に

お願ひするのみです

 

上原良司

 

 

 この慰霊碑の右横には、上原さんの略歴が刻まれた石碑があります。  

                                              (撮影:令和2年10月27日)

 

 このレリーフにある、学帽姿の笑顔の上原さんは、

旧制松本中学校に入校された頃でしょうか・・・・・。

 

 一方、慰霊碑左側には、慰霊碑建立の趣意を刻んだ石碑があります。

 

 

 建立の趣意

 

 今から六十余年前の第ニ次世界大戦において 多数の国民が戦争

 に駆り出され 祖国・故郷・家族のためと信じつつ自由で平和な

 時代の到来を願いながら戦い 無言で逝った

   

 その多くの戦没者の思いを代弁したとも言うべき 突撃前夜に

 上原良司が書き残した「所感」の一節をここに刻み

 そのメッセージを次代に伝えるべく生誕地・池田町にこの碑を

 建立する

 

 平成十八年九月二十七日

 生誕地・池田町に上原良司の碑をつくる会建立 

 

 

 碑文にあるように、碑が建てられたのは、平成18年(2006年)の9月でした。

 

 実は私が安曇野市内の会社に赴任したのが、その3か月前の平成18年6月の事でした。

 

 今から14年前のことになります。

 

 

 

 この年(平成18年)の3月、東條由布子さんに誘われて、

インドのコルカタにある「スバス・チャンドラボース記念館」の行事に

参加させて頂きました。

 

(写真左がクリシュナ・ボース館長、右が東條由布子氏<故人>:平成18年3月訪問)

 

(クリシュナ・ボース館長に目録を渡す私・・・同上)

 

(印象深かった、記念館の伊29潜水艦乗務員とチャンドラボースの写真・・・同上)

 

 その折の強烈な印象が、私の戦没者慰霊への思いを深めるきっかけとなり、

翌年からの戦地巡拝に繋がって、

更に三ヶ根の戦没者慰霊園の護持活動に結ばれたと言えます。

 

 

 思えば、上原さんの慰霊碑建立の半年前に、私はインドで戦没者慰霊への思いを深め、

そして慰霊碑建立の3か月前に、安曇野の会社に赴任してきたことになります。

 

 

 赴任した安曇野で、上原さんの碑が、私の赴任先の目と鼻の先にあったということも、

考えてみれば不思議なご縁だった・・・・などと、感慨に耽っていましたら、

何と、それまで有明山の山頂を覆っていた雲が急に途切れ始めて、

頂上が頭を覗かせているではありませんか!

 

(上原さんの慰霊碑②  撮影時刻 午後0時31分)

 

(上原さんの慰霊碑③  撮影時刻 午後0時32分) 

 

(上原さんの慰霊碑④  撮影時刻 午後0時39分)

 

 有明山が頭を見せてくれたのは、

ひょっとして上原さんの温かい思し召しではないか・・・そんな気もして参りました。

 

 その証拠(!?)に、

慰霊碑の周りを「赤とんぼ」と「黄色の蝶々」が飛び回っていましたから・・・。

 

 

 上原さんの慰霊碑近くの石に「赤とんぼ」が止まりました。

 

 平らな石の表面に白い筋が幾筋もあり、この石が、何か飛行場のようにも見え、

更に「赤とんぼ」が、これから滑走路(石の白い筋)を飛び立つ飛行機のようにも

見えて来ました。  👇

 

 

 実は「赤とんぼ」は、

日本海軍の練習機「93式中間練習機」の別称でもあったのです。

 

(93式中間練習機 別称「赤とんぼ」)

 

 

 機体がオレンジ色に塗られていた為、「赤とんぼ」と呼ばれていました。

 

 終戦間際、この低速練習機で特攻を命ぜられた部隊がありましたが、

この飛行機で特攻出撃された隊員の気持ちを思うと、何ともやり切れません。

 

 

 ところで 「黄色い蝶々」は、

戦没者慰霊祭や海外戦地跡で何故かよく現れることから、

「英霊の化身」と言われるようになったと言います。

 

 

 パプアニューギニアやイリアンジャヤ、

そして北ボルネオなどの戦跡で「黄色い蝶々」が乱舞するのを目にしましたし、

三ヶ根山の慰霊園では季節はずれでも「黄色い蝶々」を見かける事があります。

 

 

 ただし、本当に英霊の化身なのか、もちろん科学的には証明されていないので、

信じる信じないは、各自の自由という他ありません・・・・。

 

 

 この日、午後には、有明山上空の雲はすべて消え去り、

澄み切った秋の青空の下、有明山が堂々の山容を見せてくれました。

                                        

 

 (撮影時刻:午後1時57分)

 

 上原さんの碑にお参りさせて頂いた後、

最後に、上原さんの生家、特攻に飛びたった知覧、特攻突入された沖縄の嘉手納湾、

これらは慰霊碑から皆同じ方向ですが、手を合わせ帰途につきました。

 

 

     

 

 改めて、故上原良司様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

             合掌