長野県大町市の霊松寺30世住職の安達達淳(あだちたつじゅん)和尚は、
明治新政府による神仏分離・廃仏棄釈の暴政に対して、
死を賭して立ち向った傑僧です。
紅葉でも知られる同寺を、この10月26日に参拝しました。
(安達達淳和尚 霊松寺パンフより)
(霊松寺 本堂 令和2年10月26日 撮影)
(霊松寺 本堂天井の「鳴き龍」 同上)
(霊松寺 今年の紅葉① 同上)
(霊松寺 今年の紅葉② 同上)
(霊松寺 今年の紅葉③ 同上)
同寺パンフレットによれば、
明治新政府による神仏分離・廃仏毀釈までの寺史は概ね次の通りです。
「応永11年(1404)に、曹洞宗としては信濃国最初に開山され、
”大本山總持寺御直末三十六門中元輪番地”と称される。
戦国時代、この地の豪族仁科氏の庇護を受けていたが、
仁科氏没落後江戸時代になって、
正保4年(1647年)、時の松本藩主からの申し出により、
徳川家光公の手により再興の道が開けた。
弘化4年(1847年)の善光寺地震によって寺院は全倒壊した。
復興は、文久3年(1863年)、
当寺41歳の安達達淳師を30世住職に迎えてから大きく進んだ。
復興途上に大政奉還となり、明治新政府は日本古来の神道を宗とし、
仏教を外来宗教として排除するため、
明治元年に神仏分離令、明治3年に廃仏棄釈令を発布し、
寺院を取り潰す政策を進た。」
幕末、この地を治めていた松本藩(藩主:戸田光則)は、
戊辰戦争では、薩長(西軍)と徳川(東軍)どちらが優位か、
模様眺めに終始して、新政府軍が東征に乗り出してようやく、
上納金付きで官軍(西軍)側に付いたという、
「新政府への引け目」があったとされます。
戸田光則(みつさだ)は、維新後の我が身安泰(松本藩知事)を願い、
明治新政府の歓心を買おうと、廃仏毀釈令に対する過激な反応をしたようです。
それが、我が国でも例を見ない、
熾烈を極めた、松本・安曇野平の廃仏毀釈に繋がりました。
戸田は、自身戸田家の菩提寺「松本全久院」を真っ先に廃棄しました。
更に藩内の廃仏毀釈を徹底するため、
部下を各寺に派遣して住職に無理な問答・詰問をし、
答えが出来ず窮した時は、それを口実に取り潰すと言う、
卑劣極まりないやり口を徹底しました。
こうして藩内寺院の8割が廃され、仏像や経典が破毀されたと言います。
ところが、霊松寺の達淳和尚は、藩方針に反対し、決して屈服しません。
屈服しない達淳和尚に苦慮した松本藩は、
上級官僚の「岩崎八百之丞」を霊松寺に特派して問答に及びました。
その問答の様子を、パンフレットを引用して記させて頂きます。
「問答に及んで屈服しない和尚に業を煮やした岩崎は、
地獄極楽の有無を問い『あるなら見せよ。』と詰め寄ると、
和尚は白装束に改め、短刀をのせた三宝を持って現れ、
『地獄極楽はあの世にある。
見たいなら案内するので共に腹を召されよ。』と迫った。
そのため岩崎は返答に窮して下山した と伝えられる。」
何と腹の座った和尚であることか!
自らの死を賭した、全く惚れ惚れとする達淳和尚の覚悟です。
「あっぱれ!」と言う他ありません。
その後、達淳和尚は上京し、
太政官(明治新政府)に廃仏毀釈令の非を訴え撤回を迫りました。
達淳和尚の筋の通った論駁と毅然とした態度は、
新政府高官らを感嘆させ、明治5年廃仏毀釈令は撤廃されました。
達淳和尚は、廃仏毀釈令撤廃後、旧松本藩内を巡回し、
廃寺となっていた多くの寺院の再興に努められました。
霊松寺には、廃仏毀釈で廃寺となった、
安曇野松川村の大和山観照禅院の山門が移築されています。
(霊松寺 元「大和山観照禅院」山門 令和2年10月26日 撮影)
なお、藩知事戸田光則が廃した戸田家菩提寺の松本全久院も、
達淳和尚によって再興されました。
明治新政府の廃仏毀釈令は、聖徳太子の頃より1200年以上、
連綿と続いてきた日本の仏教界への徹底した迫害でした。
長い日本の歴史の中で、
神と仏が、神社や仏閣の中で同居するというスタイルを日本人は作り上げ、
それを独自の精神基盤(血肉と言っても良い)としてきました。
そうした精神基盤の元となっている神社仏閣を、
浅薄な知識と権力で無理やり、形の上で神と仏とに分け、
「神のみ」を、徳川から権力を奪い取った自分たち
(=長州・薩摩の下級武士や、一部の卑賎国学者)に都合が良いように、
形を変えて利用したというのが真相です。
万世一系の天皇を戴く日本は、日本古来の神道を唯一とすべきとして、
明治新政府は仏教を外来宗教とまで決めつけて忌避し、
多くの寺院を損壊しました。
全国に吹き荒れた廃仏毀釈の激しさは、
現代ならアフガニスタンのタリバンによる、
バーミヤン仏教遺跡破壊に匹敵するものと言えます。
この蛮行が、
達淳和尚に代表される高邁達識の僧たちの献身的努力によって
廃止に追い込まれたことは、
日本の歴史文化と国民の伝統精神護持にとって、
どれほど良かったか計り知れません。
その後廃仏毀釈の暴力は止まったものの、
薩長の軍閥政治が続いた日本では、
太平洋戦争まで神仏分離・廃仏毀釈の悪癖が色濃く残ったと言えます。
天皇を現人神とする国家神道が絶対で、仏教は軽視という考え方は、
天皇の前には、国民の命は鴻毛より軽いものとされて、
神の名の下に、命を惜しんではならず、命を捨てる事こそが美徳とされ、
膨大な日本の青年たちの命が無為に奪われる事になりました。
明治新政府によってなされた神仏分離・廃仏毀釈の愚策が、
どれほどその後の日本の政治と軍事に悪影響を与えたか、
日中戦争や太平洋戦争で多くの尊い人命を奪う事に繋がって行ったか、
泉下の達淳和尚もきっと嘆息しておられるのではないでしょうか。
拝