臨済宗中興の祖 気骨の禅僧「正受(しょうじゅ)老人」の「正受庵(しょうじゅあん)」を訪ねました。 | 三ヶ根の祈り のブログ

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 8月18日の戸隠神社参拝の翌日、思い立って飯山市にある「正受庵」を

初めて訪れました。

 

 「正受庵」は、江戸時代の初期、臨済宗中興の祖として、また、

白隠禅師の師として知られる「正受老人」が終生住まわれ、修行に

明け暮れなされた庵です。

 

 明治維新の折、薩長新政府が黙認して遂行した「廃仏毀釈(はいぶつ

きしゃく)」の愚政で、一時は廃寺の危機に陥りましたが、その後、

山岡鉄舟らの尽力で保護・保存されることになり、その甲斐あって、

今に、当時の姿そのままに残されている庵です。

 

(庵の外観)

 

(庵の仏間)

 

 仏間上り口の賽銭箱に六文銭の家紋があるのは、正受老人の父親が、真田藩主 真田信之公(真田幸村の兄)であることに因んでいます。

 

 庵を訪問した日、たまたま現住職と少しお話させて頂くことが出来た

のですが、住職によれば、正受老人は、信之公76歳の時の子供で、

庶子だったとのことでした。

 

 母親は、信之公の側に仕える女性だったそうですが、その名前は分っておらず、そればかりか正受老人自身、その幼名が全く伝わって

いないという事でした。

 

 正受老人は、知識をひけらかしたり、自分を飾り立てるようなことは徹底して忌み嫌った方だったと言うことから、おそらく自身の幼名や母親の名前さえ、残さぬようになされたのではないか・・・・

そのように住職は話されました。

 

 ところで、私が正受老人のことを初めて知ったのは、故安岡正篤氏の

講述録によってでした。

 

 講述録を目にしたのは、かなり前のことですが、

「正受老人」が、若き日の「白隠禅師」を相手に、禅の真髄にも関わる痛快極まりない行動を取られた、そのエピソードを紹介なさっておられたのが

強い印象として残っており、それを読んで、一度は「正受老人」の所縁の

飯山へ行ってみたいと思っていたのでした。

 

 その講述録は、安岡氏が1961年(昭和36年)7月=安岡氏64歳=に、東京で開催された「東洋哲学講座」研修会のもので、後に、

プレジデント社から発刊された書「知命と立命」に収録されました。

 

「知命と立命 安岡正篤 人間学講座」(プレジデント社)

 

 実は、正受老人は、生意気な若き白隠に対して、厳しい言葉だけでなく、

「馬鹿野郎!」となじった上、こともあろうに、庵のある丘の上から、

白隠を丘の下へ蹴落としたというのです。

 

 その蹴落とした跡というのが、今は丘の麓から庵へと昇る石段となっていて、この石段は別名「蹴落とし坂」とも呼ばれているということでした。

(住職談)

 

(庵に昇る石段=別名 「蹴落とし坂」)

 

 

 このように気骨のある禅僧だった「正受老人」は、時の飯山藩主や水戸光圀からの物的・金銭的な支援を一切拒絶して、この飯山の小さな庵で

亡くなるまで仏道一筋に励まれたと言います。

 

 「正受老人」の痛快な生き様を知るにつけ、思い起こされるのが、

鎌倉時代の名僧「明恵上人」です。

 

 明恵上人は「華厳宗」中興の祖と言われています。

 

 明恵上人は、当時の有力な部将「平重国」が父親でしたが、両親が

早くに亡くなり仏道の道に入られました。

 

 「承久の変」の後、鎌倉幕府執権の北条泰時公は、後鳥羽上皇側に

位置していた明恵上人に感激の対面を果たし、以降、上人を師として

崇め、その教えを乞う事が幾たびもあったことが知られています。

 

 泰時公は、明恵上人への心からの感謝の気持ちから、何度も

物的・金銭的支援を申し出るのですが、上人は絶対に受け入れず、

一僧侶として生涯、洛北栂尾の高山寺で仏道に励まれました。

 

(明恵上人  ウイキぺデイアより)

 

 

 正受老人のお墓は、「正受庵」の本堂近くの墓地に、母親のお墓と並んで建てられていました。

(中央の「栽松塔」が正受老人の墓、その隣、向かって右側が母親の墓)

 

 

                                                以上