新型コロナ感染 収束祈願 七神社詣り (その2) | 三ヶ根の祈り のブログ

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 三嶋大社、箱根神社、伊豆山神社への三社詣りに引き続き、静岡県駿東郡小山町の東口本宮富士

浅間神社、および、富士宮市の富士山本宮浅間大社、山宮(やまみや)浅間神社、村山浅間神社の

四神社への巡拝について記させて頂きます。

  どの神社も、静かな雰囲気の中でお参りをさせて頂くことが出来ました。

 

(1)東口本宮富士浅間神社(別称:須走<すばしり>浅間神社) 

                                    (5月26日)

(社殿)

 当社創建のきっかけは、西暦802年の富士山東部爆発噴火の鎮静祈願が、この地で斎行された

ことによります。

 

(神社の御神木とも言うべきハルニレ)

 

(東口本宮富士浅間神社に隣接する護国神社)

 

(2)富士山本宮浅間大社(5月28日)

 (本宮)

 

(神社内にある湧玉池)

 

 富士山本宮浅間大社は、紀元前27年、垂仁天皇の御世に創建されたと伝わる古社ですが、

今日全国にまたがる約1300社の浅間神社の総本山的な神社として知られています。

 

 主祭神は、木花之佐久夜昆売命(このはなのさくやひめのみこと)<別称:浅間大神>です。

 

 西暦806年、現在地から車で約10分ほど富士山側に入った「山宮(やまみや)」に祀られていた

浅間大神が、平城天皇の勅命を奉じた坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)によって、現在地に

遷座されました。

 

 古来、多くの修験者たちが、当社内の湧玉池で身を清めてから富士山頂を目指しました。

 

 実は、当大社も、歴代武家政権からの篤い信仰と護持を得ながら存続発展して来たという歴史を

持っています。。

 源頼朝の流鏑馬奉納、武田信玄の桜、徳川家康の境内一円のお堂整備など、今日の大社隆盛の

基を窺い知ることが出来ます。

 

 武家政権の篤い信仰を得たという点では、富士宮市の「富士山本宮浅間大社」と、富士吉田市の

「北口本宮富士浅間神社」は並び称される神社同士ですが、よく言われるように、

「北口本宮富士浅間神社」と「富士山本宮浅間大社」とは、富士山頂を挟んで、ちょうど、南西から

北東に至る対角線上に位置しているという、「陰陽」のパワーバランスに支えられています。

 

(参考:北口本宮富士浅間神社 =令和2年2月撮影=)

 

 それゆえ、富士山が世界遺産に登録されるや、両神社が日本有数のパワースポットとして

世界に向けて発信され、多くの外国人が富士山域に入ることになりました。 もちろん、

この霊威は今に始まったことではなく、遠く、鎌倉時代から戦国時代、そして徳川時代と、

800年以上に亘って、我が国の武家政権の有力者たちが、その神的パワーを畏れ敬い、

両神社の護持に莫大な財力を傾注することにより、その甲斐あってか、この国の正当な支配者

としての実権を握り得た(=神々から政権を委ねられた)という事実からも明らかです。

 

 余談ながら、明治維新後の政権は、「神道」を国教と唱え、天皇をも「現人神(あらひとがみ)」として

「神様」に祀り上げ、国民にもその崇拝を強いることになりました。 しかし、そうまでしておいて、

明治・大正・昭和の政権トップらは、その実、かつての武家の頭領たちが命懸けで成した神社・仏閣

への敬仰や護持の念を、如何ほど持ち合わせていたのか・・・・、ここのところに大きな疑問を

禁じ得ません。

 これは、現在の政府トップにも言えることですが・・・・。

 

(3)山宮(やまみや)浅間神社 (5月28日)

(社殿)

 

 実は、この神社には「本殿」や「拝殿」がありません。 あるのは、神社の遺構としての礎石のみです。

この日(5月28日)は曇っていて富士山が眺められなかったのですが、もし快晴でしたら、この写真は

下のようになったはずです。(同神社のパンフレットから)

 

 当神社は、富士山本宮浅間大社に浅間大神が遷座される前、鎮座されておられた神社ですが、

言い伝えによりますと、古来 何度社殿を建てても倒壊してしまうという不思議な神社だったため、

ある時から社殿の建立は取りやめ、この場所が、直接富士山を遥拝できる位置にあったことから、

富士山そのものをご神体として遥拝する「富士山遥拝所」として、大切にされてきたと言います。

 

 

 

 

(山宮浅間神社 パンフ)

 

 

   この山宮浅間神社、天気の良い日に再びお参りしたいものです。

 

(4)村山浅間神社 (5月28日)

(社殿)

 

 

 (境内の護摩壇)

 

 

(神社境内に残る「興法寺」)

 江戸時代末期まで、当境内には神仏習合として「興法寺」と「村山浅間神社」が同居していましたが、

明治維新の廃仏希釈政策により、神社と寺の間に、文字通り「神仏分離衝立」が建てられて、無理やり

引き分けられてしまったといいます。

 興法寺は、数院の塔頭を有する大寺でしたが、神仏分離により廃寺同然に追いやられたということ

でした。

 

(村山浅間神社入り口の石碑。 富士山頂へと繋がる「村山道」の起点)

 

 

 古来、多くの修験者たちが、この村山浅間神社に参拝した後、社の奥に連なる登山道(村山道)を

歩んで、富士山頂を目指したと言います。

 

 今回、当初の巡拝計画では、この村山浅間神社のお詣りは予定してなかったのですが、

山宮浅間神社を訪れるために、富士宮駅で、たまたま乗ったタクシーの運転手氏が地元の人で、

しかも、村山浅間神社の数少ない氏子の一人であることが分かったので、山宮神社の参拝後に、

村山浅間神社にも廻って頂き、氏ならではの御案内と説明を頂きながら、お参りをさせて頂きました。

 

 このような幸運に恵まれたのも、富士の浅間大神様の思し召しかと、深く感謝した次第です。

 

(巡拝を終えて思う事)

 今回の四日間に亙る古社巡拝を通して思うことは、新型コロナウイルスと言う、人の目には見えぬ、

しかも実態が良く掴めない疫病禍を収束(敢えて、「終息」という言葉は使いませんが。)させて行く

ためには、医薬品の開発や、生活習慣の改善など、現在 国を挙げて取り組んでいる処方に加えて、

「神さまにお祈りしてすがる」ということも非常に大切なことではないかと言うことです。

 

 何を、非科学的なことを言い出すのだ!と笑われるかもしれませんが、その科学というものが、

新型コロナウイルスの前には、全くと言ってよいほど歯が立たないという現実を、世界中の人々が

目の当たりにしているという現実は否定できません。

 

 こうした中、日本の歴史を振り返ってみますと、古来、疫病禍と自然災害は、人の力では如何とも

しがたいものがあり、人々は、上下に関らず、神仏に その禍の収束を祈願したものでした。 

 人の力で及ばない部分を、神仏の力に委ねざるを得なかったとも申せます。 

 その祈りの場所が、日本各地に今に残る、多くの神社・仏閣でした。

  

 特に、日本の歴史の骨格を創り上げて来た(と私が考える)、奈良朝廷や鎌倉幕府、そして、

それらの政道を発展的に引き継いだ徳川幕府。これらの政権トップたちは、持てる限りの科学力や

財力を、疫病禍や自然災害の収束に投じましたが、それに加えて、我が国古来の神社・仏閣への

祈願・祈祷も、半端なものではありませんでした。

 

 彼らは、日本の神社・仏閣の持つ霊威を知悉していたからに他なりません。

科学の力と、神仏の力(神威・霊威)は、車の両輪であることを体得して、政権を運営してくれた

からこそ、今、こうして 世界に誇る素晴らしい日本人が、この日本の地に存在していると思います。

 

 神仏への祈願・祈祷が、具体的にどれだけ疫病・自然災害に効き目があるのか?  それが

定量的に算出できないかぎり、日本国民のために祈ることなど出来ないという為政者が、

今この日本に居るとするなら、彼は、もはや日本のこれからの政道をリードする資格はないと

申せましょう。

 

 日本の首相が今、「世界中の新型コロナウイルスの早期収束のため、内閣を挙げて、国民と共に

日本の主要神社と仏閣に祈祷・祈願を斎行する!」と宣言し、則実行すれば、憲法には「政教分離」の

条項があるなどと言って普段は口うるさい政党も、そして、靖国神社の存在に十年一日のごとく

口を挟みこむ隣国も、日本政府による神社祈祷を非難するどころか、文句も言えず、冗談ではなく、

日本は内政・外交共に落ち着き、現政権もしばらくは安泰に進むと思うのですが・・・・。

 

 今こそ、そうした政治家の胆力が求められる時かと思います。

しかし、今回の新型ウイルス禍に対して、何かにつけ「専門家に諮った上で決断します」が常套文句

となった現政権の政治家に、こうした胆力を期待することは、所詮 虚しいことなのか・・・・・。

                                                    以上