(保存版)鎌倉幕府の『大いなる人=安達泰盛(あだちやすもり)=』と三ヶ根観音 | 三ヶ根の祈り のブログ

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 弘安8年(1285)11月17日、

後に「霜月騒動」と呼ばれる内乱が鎌倉で起きました。

 

 時の鎌倉幕府執権、北条貞時(さだとき)に仕える

御家人ナンバー1の安達泰盛公が、

同じく、貞時に仕える北条家御内人(みうちびと)の平頼綱(よりつな)の襲撃に遭い、

泰盛公始め安達家に連なる一族が滅ぼされるという、

鎌倉幕府内の激しいクーデターでした。

 

 泰盛公は、享年54歳でした。

 

(左が安達泰盛公 右は御家人竹崎季長 「蒙古襲来絵詞」より)

 

 

 泰盛公は鎌倉幕府にあって、

評定衆や御恩奉行など幕府の重職を歴任しました。

 

 特筆される事績は、

北条貞時の父である第8代執権、北条時宗をよく扶け、

「元寇」の国難を凌いで日本を勝利に導いたことや、

元寇後の御家人体制強化を推進したこと、

更に、真言宗高野山の振興にも力を尽したことなどです。

 

 高野山の「町石(ちょうせき)」は、登拝者の便宜を図るため、

道標として麓から1町(109メートル)毎に建てられた石柱ですが、

この「町石」の整備に尽力したのが泰盛公でした。

 

(高野山に今も残る「町石」                          令和1年9月撮影)

 

 

  しかし一方で、御家人体制の改革強化が、

北条家の家政組織を束ねる御内人の平頼綱にとっては、

自らの地位を危うくするとの疑心暗鬼を生み、

頼綱は、讒言によって、まだ若年だった執権北条貞時に泰盛公の追討命令を出させ、

弘安8年(1285)11月17日、泰盛公及びその一族を亡き者にせんと、

クーデターを起こしたのでした。

 

 平頼綱による、安達家や関係一族への追討は過酷を極め全国に及びました。

 

 平頼綱の執拗な追及から、三河国に逃れて来たのが、

泰盛公の母親実家である小笠原嫡男家の小笠原泰房です。

 

 泰盛公の母親は、小笠原泰房の曽祖父、小笠原時長の娘でした。

 

 泰房は父親と2人の兄を殺害され、

三河国太陽寺荘(現在の豊橋市東部)の所領に逃れて来ましたが、

そこも安泰ならずと、その2代ほど後、更に三河湾沿いを西に進んで、

三ヶ根山麓に居を構える事になり、幡豆小笠原家と呼ばれるようになりました。

 

 

 幡豆小笠原家はその後、寺部地区に城を構えて代々続くことになりますが、

寺部城の鬼門封じの寺として開かれたのが太山寺(たいさんじ)で、

住職家は幡豆小笠原家一門が現在に至るまで引き継いで来ています。

 

(三ヶ根観音戦没者慰霊園の眼下に広がる、現在の「幡豆の町」 令和3年夏)

 

 

 現在の三ヶ根観音は、今から約150年前の明治初め、

時の三ヶ根観音住職からの要望によって、

太山寺の住職が、その住職を兼務することになりました。

 

 

 三ヶ根観音は、1285年の「霜月騒動」の約120年前、

「平治の乱」に敗れて平家に追われ、

この寺に匿われていた源氏の有力武将、平賀義信(ひらがよしのぶ)が、

「源平(紅白)咲き分けの椿」を本堂前に植えたと言われる、

源氏所縁の寺です。

 

 その平賀義信と義理の兄弟だった、源頼朝公側近の安達盛長(あだちもりなが)、

その曽孫が、実は泰盛公だったのです。

 

 ちなみに、安達盛長は令和4年1月からスタートするNHK大河ドラマ

「鎌倉殿の13人」の中の一人で鎌倉幕府の重鎮でした。

 

(三ヶ根観音本堂と「源平(紅白)咲き分けの椿」)

 

 

 

 「平治の乱」から約700年後、

「霜月騒動」から約600年を経た明治の時代になって、

かつて平賀義信が在住していた三ヶ根観音の住職位に、

義信と義兄弟の安達盛長の曽孫である泰盛公の、

母方の縁に連なる、幡豆小笠原家一門の太山寺住職が就かれたのは、

不思議な巡り合わせと言いますか、大変興味深いものを感じます。

 

 

 生前徳望の高かった泰盛公の死を悼む声は、日本各地で上げられ、

今に伝えられています。

 

 

 ①「一遍上人絵伝」

 

 「城の禅門の亡ける日は、

聖、因幡の国におはしけるが、空をみたまいて、

鎌倉におほきなる人の損するとおぼゆるぞとのたまいけり。」

 

  これは国宝「一遍上人絵伝」の中で、

ある日の上人の様子が記されたものです。

 

 一遍上人は、鎌倉時代、遊行僧として日本各地に

踊念仏(おどりねんぶつ)と称される念仏行を広め、

「時宗(じしゅう)」の開祖として知られています。

 

 現代語に読み下しますと、「城(じょう)<陸奥国秋田城長官という朝廷官位>の

禅門(ぜんもん)<入道・・・安達泰盛>が亡くなられた日、聖(ひじり)<一遍上人>は、

因幡国<鳥取県>にお見えでしたが、空を見上げられながら、

鎌倉で大変枢要な地位の人の命が失われたようだ、と仰られました。」

 一遍上人が「おほきなる人(=大いなる人)」と述べたのが安達泰盛公です

 

 一遍上人は、1282年(霜月騒動の3年前)に鎌倉での布教を試みましたが、

北条時宗公から入京を咎められたという経緯があります。

 

 その場面が、「一遍上人絵伝」に表されています。 

 

 ちなみに、この時、鎌倉入りを咎めたのは時宗公ではなく、

泰盛公との説もあるとのことです。

 

 (一遍上人絵伝: 鎌倉に入った一遍上人<左>と、北条時宗<右 馬上>)

 

 
②「蒙古襲来絵詞」

 

  (肥後国の竹崎季長(右)が、安達泰盛(左)に恩賞を直訴する場面)

 

 肥後国の御家人、竹崎季長は、

元寇での活躍に対する恩賞に不満を抱き、

鎌倉まで出向いて、時の御恩奉行,安達泰盛公に直接訴えました。

 

 訴えを聴いた泰盛公は、

状況を十分把握した上で、即刻、執権の北条時宗公に奏上し、

時宗公から季長には、新領地と黒駒一頭の恩賞が与えられました。

 

 

 「蒙古襲来絵詞」は、

泰盛公が非業の死を遂げてから8年後の西暦1293年に、

竹崎季長によって制作されたものですが、

季長の、安達泰盛公への敬慕の情感が溢れています。

 

 

 

 ③「蒙古の碑」 )

 

 「蒙古の碑」は、

現在、仙台市の東北大学植物園内に遺されています。

 

 「霜月騒動」当時、

陸奥守に任じられていた泰盛公を偲ぶ碑文が刻まれています。

 

  (令和1年4月17日 撮影)

 

 

 ④「徒然草 第185段」

 

 「徒然草」作者の吉田兼好は生涯2度、

鎌倉方面を訪れたと言われていますが、

第15代執権、北条貞顕(さだあき)公と親しかったことは

よく知られています。

 

(北条貞顕公が造園した、横浜市金沢区「称名寺」の庭園  令和1年9月撮影)

 

 

 貞顕公の父親、北条顕時(あきとき)公は、

安達泰盛公とは大変昵懇な間柄にあり、

自身の後室に、泰盛公の娘(千代野)を迎え入れています。

 

 こうした繋がりから、吉田兼好は北条貞顕公を通じて、

泰盛公の人となりや卓越したエピソードを聞き出し、

徒然草に掲載することになったと思われます。

                                   

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