今日は三ヶ根観音の戦没者慰霊園の花畑(といってもパンジーとビオラ)に水遣りに出かけました。
慰霊園に到着してまず行うのが国旗の掲揚ですが、その後にいつも行うことは、「殉国百四十五烈士の碑」という慰霊碑の石段に、ラジカセを置いて、「讃美歌」のCD(全22曲)を約1時間余り、霊園内に流すことです。
(今日の「殉国百四十五烈士の碑」)
この慰霊園は、古刹三ヶ根観音の敷地にあり、同寺は真言宗のお寺ですので、その本堂の近くで、
讃美歌を流しても良いのか? などと、心配してくださる方もおられるのですが、心配はないのです。
また、小生の家は、先祖伝来、浄土真宗門徒ということもあり、小生もキリスト教徒ではありません。
実は、ここで賛美歌を流すには理由があるのです。
この慰霊碑にお名前が刻まれている145名の方々は、太平洋戦争終結後、パプアミューギニアの
ラバウルで、オーストラリア軍の戦犯裁判により無念の刑死を遂げられた人たちです。
身に覚えのない罪を着せられ、抗弁も許されず死刑の宣告を受けたこれらの人々にとって、
いつ刑が執行されるか、極限の不安に苛まれる監獄生活の中で、唯一、心の安らぎを得ることが
出来たのは、同じ死刑囚仲間であった「片山日出雄」さんが指導する、夕べの賛美歌の集いでした。
「片山日出雄」さんは、幼少の頃、養子に出され、長じて、東京外語学校(現 東京外国語大学)に入られて英語を学ばれました。 この学生だった時にキリスト教の洗礼を受けられたそうです。
終戦前、インドネシアでの軍務を終えて日本に帰り結婚されたのですが、終戦の半年後、
インドネシア時代の出来事を問題としたオーストラリア軍事法廷から召喚命令が出され、
最愛の妻を日本に残したまま、ラバウルに赴かれたのでした。
法廷での弁明によって無罪になるものと信じていた片山さんでしたが、当時の上官の裏切など
があり、最高刑(死刑)の宣告を受けてしまいました。
死刑判決が出てから、1年以上ラバウルの収容所におられたのですが、この間、自身も
死刑囚の身ながら、得意な英語力を駆使して、オーストラリア軍関係者に対して、
同囚の仲間たちの助命嘆願に奔走されました。
さらに、死刑判決を受けた仲間たちの心の平安になればとの思いから、毎夜、賛美歌の集いを
開き、賛美歌を教えながら、共に合唱し合ったということです。 彼の薫陶を得た受刑者の数名が、
収容所の中で、洗礼を受けるまでになったと伝えられています。
彼のそうした行動は、オーストラリア軍内でも評判となり、何と彼に対する死刑執行停止要請が、
収容所長からオーストラリア本国政府に出されました。
しかしながら、この戦犯裁判は極めて政治色が強いものであったため、その要請も却下され、
昭和22年10月23日午前8時30分 銃殺刑が執行されました。 享年29歳。
(上から2段目 一番左 「日出雄」が正しい)
(平成28年9月に実施したラバウルでの慰霊式模様①)
(同上 ②)
今日の三ヶ根慰霊園上空は、何故か、飛行機雲が縦横に跡を残していました。