施設にいる母に会いに行ってきます。

面談のタイミングが誰かの面談の後2週間空ける必要があったのが1週間になったこといがいはルールに変化はありません。


まだ直接は会えないし、

何より施設の中にいる母と伯母との面会は成立していない。どうしてなのか理解できない。

母が理解できるうちに、

看取りに入ったと言われる伯母の体力の持つうちにと思う私の感覚はおかしいのだろうか。

本当に悲しい。

2人の思い出を継続してあげたい。

どれだけ生きる元気になるだろうか。


私の本当の願いは母を大好きなドライブに連れ出してあげたい。ただただ知ってる道をあちこち車を走らせて。



今回は、神戸にいる従姉妹から古い写真を預かっていて、それを渡すかどうか迷ってる。

母は時系列がわからなくなっていて、もう亡くなった人の死を何かのタイミングで思い出すと悲しみで落ち込む。

まるで今その別れが来たように何度も悲しみを感じるみたいで、しばらく落ち込む。

電話越しでも泣いてばかりの日が続いたりもする。



古いアルバム


アルバムの中にある唯一の但し書き。

台湾で軍医をしていた祖父の筆跡。

おじちゃんがどこか外国に行った帰りなのかな?

当たり前だけど、私にとっては年老いた「おじいちゃん」でしかない人にも若い頃があったんだ。

若い頃は当然見たことなんてないけどどこか懐かしくて。

引き上げではいろんな思いをしたそうだ。

日付に歴史を感じる。


私でさえジーンとくるのに母にとったらどうだろう。



今回このアルバムには母の両親や兄弟、すでに亡くなってしまった人しか写っていなくて、懐かしさと悲しみとどっちが勝つかなと考えるけど、これはもう考えても答えは出ない。


何度も寂しい会いたいやっと会えると話している私との面談がやっと叶う今日に渡すのはどうかなぁと思って。


しかも面会の時間はたった15分。多少は多めに見てくれるけど表向きはほんの少し。


楽しかったーという気持ちをしばらく楽しんでいる方が面会の意味もあるかと思ったりする。





その反面、母が悲しむかもしれないから

せっかくの面会の後に悲しみが来ないように、

と勝手にこちらが決めつけるのはどうなのかという気がする。

確かに突然誰かの死を思い出して落ち込んだりもしたけど、それも母の人生の一部。

悲しむことはかわいそうなだけではないのかな。

若い時は生活に追われてみなが亡くなった当時に思い残していた悲しみが洗われるならそれは悪くないのかも。


母の認知が進んできているので、過剰な刺激になってしまうとよくないかなとも考える。

でも認識できているうちに、死に目に合えなかった家族との心のお別れができるなら、母にとっては良いことだとも思う。


答えが出なくて悩む。

母の顔を見て決めよう。


どちらにしても、結果がどう出たとしても私の母を思う気持ちには変わらないし、

そうか、よくない結果は残念かもしれないけど悪くないな。



みんな亡くなったけどお母さんの心の中にいるよ、

顔を見て言ってあげられるから、今なのかもしれないな。


仕事で乗り降りする駅を乗り越しながら羽田へ。

なんか不思議な気分。

お休みを実感する。


母に会いにいってきます。