引きこもりの頃、社会とのつながりはなかった。
両親の判断でインターネットは家になく、携帯電話も自分で稼ぐようになってから、ということで、引きこもることで自然と社会との接点を遮断したわけである。
それでも叔父の叱咤、職探し、免許取得など、変わったこともあった。
しかし普通免許を持っている、学歴のない、社会経験もない人を、雇う会社などない。そもそも働くということに、臆病になっていた。
今から考えると、これも鬱の症状だったのかもしれない。
単なる甘え、と取るか、病気、引きこもりのジレンマ、と取るかは読者の皆さんに任せます。
免許取得からしばらくして、前回の記事で書いた通り、地元の社会福祉協議会から電話があったのです。
「新しいことをやるから、来てみないか。説明会をするから出てこれないか」
最初はなにか仕事をくれるものかと思いました。
そしていざ、社会福祉協議会へ足を運ぶと、新しいこととは、就労支援、引きこもり支援のことでした。
私が社会福祉協議会と接点を持った時、社会福祉協議会の局長は、引きこもりの人の調査、引きこもりの人は働く場所を求めているのかもしれない、と考えたそうなのです。
そこで調査した結果、私が住んでいる町には多くの引きこもりと呼ばれる人たちがいることが判明し、それを何とかしないといけない、と思ったそうで、新しく引きこもり支援施設を作ってしまったわけです。
これは社会福祉の業界では有名な話です。
説明会には私を含め、もう二人の方が来ていました。
そこで言われたのが、お食事処を開きたい、引きこもり支援をしたいなどでした。
お食事処をとりあえず開くのに時間がなく、そばを打つ練習をさせられました。
町に蕎麦屋がないので、競合しないそばをメインにしたお食事処にしたそうです。
それから私はそば打ちの先生からそば打ちを習い、練習を続けました。
あの時の気持ちは不思議と、嬉しかったのを覚えています。
社会と繋がりができた。
それが単純に嬉しかったんです。
その後、お食事処を含めた施設のオープンセレモニーが開かれ、私を含めた数名の引きこもり当事者たちが、そば打ちをしたのでした。
それからお食事処を営業する、という仕事ができたわけです。
と言っても、賃金は発生しませんでした。
制度に当てはめる前に初めてしまったらしく、賃金が払える制度が整っていなかったのです。
正直、ただ働きが次第に嫌になっていたのは事実です。
それに社会とのつながりというのも、慣れてしまえば、人間関係に悩むことになります。
私は雇用されていなかったので、お客さん扱いされていたと思います。
それでも引きこもりが外に出て、決まった時間に同じ場所で、同じ作業をする。
当たり前のこの行為が大変でした。
きっと社会人ならば平気なのでしょうけれど、私にはそれがたまらなく大変でした。
そうしているうちに、制度が整い、工賃という形で、お小遣い程度のお金を手にすることができるようになりました。
それから五年以上、その施設でいろいろとやるのですが、それは別途で社会福祉協議会が本を出していますので、興味がある方はそれを読んでください。
その後、社会福祉協議会の仕事を少しずつ手伝うようになり、臨時雇用として雇われることになりました。
その時は、同じように仲間の一人も臨時雇用で雇われました。
責任がつく仕事が増え、上司との人間関係にも苦悩し、本当に苦しい日々が続きました。
それでも辞めなかったのはなぜか。
自分から主体的に動くのができない人間なのです。
どれだけ上司と合わなくても、仕事が辛くても、嫌です、が言えませんでした。
それでもお食事処メインで仕事をしていたから、まだ耐えられたのかもしれません。
料理が好きでしたし、目標として、調理師免許の取得もありましたから。
しかし調理師免許の勉強と仕事を必死にやっていた最中、突然の異動を命令されたのです。
社会福祉協議会の臨時職員ですので、異動は当然ですし、料理だけをしているというのを、認めてくれるところではなかったのです。
異動先はデイサービス。
ヘルパー二級を取っていましたが、福祉の経験のない私ができるのか、不安でした。
この異動の話の時から、眠れなくなったのです。
不安と何とかなるのではないか、という二つの感情が私の中でぐるぐると回り続け、ごはんの味もしない、眠れない、テレビを見ていても面白くない。
何も手につかないまま、デイサービスに異動する日が来ました。
説明してくれる人がついてくれるのか、そんな甘い期待もむなしく、人での足りない職場はその場、その場で説明するので、次の仕事、次は何をするべきか、まったくわかりませんでした。
とにかく言われたことを一生懸命やり、疲れて帰っても、明日が来る、と考えると眠れませんでした。
このころの記憶はあいまいで、なにをしていたのかよく覚えていないのです。
そしてまた人間関係でも苦労しました。
口の悪い人はどこにでもいるとは言いますが、本当に口が悪く、厳しい女性の先輩がヘルプで来て、私に目を光らせていました。
その先輩は異動したので、デイサービスの人ではなかったのですが、デイサービスが長い人で、この人がいなければ回らない、とまで言われている人でした。
その人だからこそ、私が危なくみえたのでしょう。厳しい言葉、視線、注意、叱責。
たった二日、ヘルプで来たその人に、私は、壊されたのです。
眠れないのが一カ月続いた私は、ついに限界を感じ、自分から精神科に向かったのでした。
精神科を選ぶ条件として、私はまず休日、土曜日に診察してくれるお医者さんを選びました。
その方が、仕事をする上で便利だと考えたのです。
今思えば、仕事のことなど考えず、平日でもいいので、いける精神科に行けばよかったと考えています。
土曜日に行った精神科は、個人でやっている、古い医院でしたが、親身になって話を聞いてくれました。
「よく頑張ってるね、もう大丈夫だから」そういわれたと思います。
きっとそれを聞いて、うつ病の人は涙するのでしょう、看護師さんにティッシュを差し出されたのを覚えています。
しかし私の鬱は感情がもうなくなっていたのでしょう、涙すら出てきませんでした。
診察結果は「不安障害」とつけられました。
お医者さんも一応、つけただけだと後にポツリとしゃべっていました。
ここでうつ病と診断された方が、もっと早く治療に専念できたのではないかと、少し思っているところもあります。
とりあえず病名がついたので、当時の上司に話したところ、「休め。有給を使ってでもいいから、休め」と言ってくれ、それと「お前に介護は向いてない」ときっぱり言われました。
見ていてきっと分かっていたのでしょう。
その後、社会福祉協議会の別の上司と面談をし、デイサービスに戻りなさい、と言われましたが私は初めて、断りました。
そして契約更新はできない、と言われ、その年の末をもって自主退職となりました。
もちろん退職金もなく、また就労支援施設へ戻ることとなったのでした。
こうやって当時の事を書いていると、いろいろ思い出しますね。
正直、滅入ってきています。
気分を変えるべく、今日見た映画の話を少し。
今日見た映画は「ディープ・ブルー2」
先日、最初の無印を見たので、続編を見ることにしたのですが、期待できない予算削減映画でした。
鬱になって一つ得たことがあります。
それはホラー映画が平気になったこと。
ホラー映画を観ても、怖いという感情がわいてこなくなったことです。
映画の見る幅が増えたのは良いことだと思っています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220725/20/aryuzado/c4/7a/j/o1500150015151644449.jpg?caw=800)