うつ病が悪化した年でした。


ここ最近は、不安感、倦怠感が強く、将来も見えず、鬱が悪化している日々を過ごしていました。


それでも時はすぎるもので、もう大晦日です。


なんとか心を整えて、来年には少しでも回復しようと、だるい体を動かして、掃除などをしていました。


悶々とした、何もできない、したいことすらできたい日々の中でも、来年への希望は少しでも持ちたいと、占いなどを見たりしています。


今年から書き始めたうつ病ブログ。


気ままに書きますので、目に止まったら、読んでみてみてください。


今年もありがとうございました。


良いお年を。




うつ病と最初は診断されなかった。


布地不安障害と病名が付き、薬を処方してもらって、少しずつだがそのときは働けていた。


職が変わり、けっこうハードな働き方をしたあとに、反動としてきた、職場に行きたくない。


このことから病院を転院し、そこでうつ状態だと診断された。


それがうつ病の最初の診断だったのかもしれない。


1ヶ月の休養で、仕事をやめた、今の内職扱い、休みは好きに取れる職についた。


それからも少し休みがちだが働けていた。


2020年ころからだろうか、休みが頻繁になり、2021年はほとんど働けず、2022年は、4月まではよかった。


5月のGW前から、なにか調子が優れなかったが、GW開けに仕事にいけなくなった。


そして10月を前にして、未だに仕事に行けていない。


普段の生活はなんとか普通通りに遅れている。


だが仕事のことを考えると、うつ状態に陥る。


考えないようにしているが、何もできていない自分に不安感と焦りばかりが募って、このまま働けない人生になるのではないかと、不安でたまらなくなる。


安定剤代わりに毎日映画を見て、感想をブログにして、その行為で考える猶予を頭に与えず、心の安定を保っている。


だがどうしようもない現実は、変わることもなく、前に書いたように、袋小路にはまったまま、私は出られずに、不安と焦りしかないのだ。







本来、こういうのはできることを数えたほうが、精神的にいいのだろうが、できなくなったことが多くて、それをやはり数えてしまう。


私は特に料理である。


引きこもりの頃から料理は好きで、就労支援施設でも料理をしていた。


好きすぎて、消極的な私が、唯一、自分から調理師免許取得を望んだほど、料理が好きだった。


今も興味が全くないわけではないが、料理をする気にならなくなった。


作ったとしてもチャーハン、チキンライスくらいで、料理への貪欲さがなくなったと言ってもいい。


きっとうつ病の人にも同じ人がいると思う。


Facebookのうつ病グループで、そういう人を見かけたことがある。


映画「ツレがうつになりまして」でも、料理好きだったツレさんが鬱になって、料理ができなくなった。


料理は頭をマルチタスクで使う。次にあれをやり、これをやる、と考えながらやらなければならない。


それがうつ病になるときできなくなるのだ。


自然とコンビニ、スーパーの惣菜に頼る日々が続く。


幸い、私は実家ぐらしなので、母や料理好きの父が料理をしてくれる。


これで1人ならば、毎日の食に困ることになるのかもしれない。






私の人生は詰んでいる。


うつ病になり、数年たつが、袋小路なのは自分でもわかっている。


私だけじゃないとは思うのだが、うつ病患者、うつ病を患うと、まず働けなくなる。


傍目からは怠けている、ある年来以上の人からは、うつ病は怠けだ、と思われている。


しかし実際に仕事に行こうとしても、いけない。


体が動かないのだ。


風邪のときのように、倦怠感とだるさ、熱があるような感じ。


こんな状態で行ったところで、仕事の邪魔にしかならない。


結果、働くことができなくなって、金銭面で困難に陥る。


貯金があっても、すぐになくなる。


これは経験済みである。


実家暮らしなので、私の場合は、なんとか生きて行けている。


さらに障害年金も受給しているので、生活できている。


ただこれも綱渡りをしているのと変わらない。


万が一、両親に何かあったら、その時点で生活ができなくなる。


働きに出たいが、体は動かない。


将来への不安ばかりが日に日に募っていき、抗うつ剤が手放せない状況は変わらない。


良くなる兆しも見えず、ただ毎日を無駄に過ごしているだけのように思えてくる。


前にも書いたが、複数のネット活動をしているものの、結果が伴わないので、徒労感が強くなる日々。


いっそのことやめてしまおうかとも考えるが、なにかしていないと不安におしつぶされてしまいそうで、やめることもできない。


まだ食べることや体を清潔にできること、家があることを幸いだと思えるうちはいいのかもしれない。


しかし人生が詰んでいることに変わりはないのだ。


性格上、誰かに相談するということもできず、相談する場所もわからず、相談したところで、解決する状況にあるのかも分からない。


そんな日々を続け、日々だけが過ぎていく。






今は朝の8時過ぎです。


普通の人、健常者は会社へ向かっているか、あるいは会社でもう仕事をしている時間でしょう。


私はというと、昨夜は0時間まで眠れず、朝は6時に起きました。


健常者には普通かもしれませんが、元からロングスリーパーの私にとった、6時間は短く、とりあえずブログを書いたり、ネット活動をしていますが、今にも寝落ちしそうな状態です。


うつ病は眠れない、とよく言われますが、私の場合、夜は寝付けず、昼は眠い状態が続きます。


昼夜逆転とまでは行きませんが、近いかもしれません。


昨日から将来への不安、今やっていることの徒労感に打ちのめされ、今日はうつ状態がひどいほうです。


そんな感じの朝を迎えております。


朝からなにか作品を紹介しようと思います。なにがいいか考えていたら、英語でやっているTwitterに、話題がのぼったペリー・ローダンを紹介します。


これSF小説ですが、おそらく本国ドイツではシリーズが5000冊を超えていると思われます。


翻訳状況は、ドイツ語圏を中心に数カ国と日本が順調に翻訳されているそうです。


日本がまさかSFの翻訳で上位国になるとは思っても見ませんでした。


 

 



 

うつ病の私の一日

 

 

前回のブログで今の状況を書いたと思いますが、今も鬱状態が続いています。

 

2021年はほとんどが家の中で、病院と買い物以外は外に出られず、ネット活動も酷いものでした。

 

前にも少し書きましたが、私は小説家を目指していました。

 

今も目指しているというか、小説家になろう、の派生サイト、ミッドナイトノベルズで執筆活動を続けています。

 

最初は小説家になろうで書いていたのですが、運営側から内容が過激なので、修正しないと消去します、という通知が来たので、慌てて過激表現ができるサイトに移動し、現在も執筆を続けている状態です。

 

さらに、ネットで稼ぐ、ということを就労支援施設にいた頃に考え、アフィリエイトを始めて、もう数年になります。

 

アフィリエイトは続ければ稼げる、ということをよく言われますが、100円も稼げていないのが現状です。

 

映画を毎日見て、そのレビューを書くブログを毎日と、日本ではなく海外向けはどうだろうか、ということで始めた無数の海外向けブログがあります。

 

海外向けブログは英語の物もあれば、スペイン語の物もあります。

 

以前はもっと複数の言語でブログをやっていたのですが、英語とスペイン語だけに集中しました。

 

それも昨年はまったう動かしていませんでしたが、今年になり、全てのブログを動かし、やり方も少し変えるようにしました。

 

ブログはこんな感じですが、結果にはつながっていません。

 

海外のブログは集客できませんし、映画ブログは1000記事を超えましたが、アフィリエイト収入は得られていません。

 

最近ではティックトック、YouTubeも始めました。

 

もちろん顔出しはしていません。

 

ゲームや画像を編集して、少しでも集客できるようにしているくらいです。

 

ほとんど趣味みたいなものです。

 

小説、ブログ、動画。

 

これを行っているだけで、一日が終わります。

 

だったら働けるんじゃないの、と誰もがきっと思うでしょうが、自分がやりたいこと、できることと、仕事は違います。

 

趣味はできるけど、仕事はできない。

 

こんな感じです。

 

時々、ブログ、動画、小説などの行為を繰り返していると、このままなにも成果が出ず、年ばかりとっていく自分の姿が見え、なにをしているのだろうか、と自問し、不安に陥ることがあります。

 

不安に陥った時には、もう出られません。

 

うつ状態になります。

 

それでも書くことが好きなので、毎日何かを書いている、表現している、自分はここにいると、世界に訴えかけている。

 

うつ病とは本当に厄介な病気です。できることから少しずつやっているうちに、気づけば、いっぱいいっぱいになっている。

 

これはもはや性格なのかもしれません。

 

こうしてまた鬱の穴に落ちていくのです。

 

私の一日はとにかくネットをしているか、寝ているか、という感じでしょうか。

 

また何か書きたくなったら、うつのことを書かせてもらいたいと思います。

 

 

今日見た映画は「忍びの国」

 

大野智さんがまだ芸能界にいた頃に撮影された、天正伊賀の乱を伊賀の側からと織田家側から描いた、時代劇が似たてな方にもおすすめできる映画です。

 

忍者好きの私も忍者描写にも不満はなかったのですが、軽い感じがどうも馴染めませんでした。

 

面白いは面白いので、一度見てみてください。

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不安障害になってから

 

一時は社会福祉協議会の臨時職員となった私でしたが、不安障害を発症し、また就労施設へ逆戻り。

 

就労施設に戻ったころ、体重も減少し、少し久しぶりに会った人に、痩せたね、と言われるほどでした。

 

元々、デブ、と言えるほど太っている私でしたから、そんな言葉が聴けるとは思ってもみませんでした。

 

胃が受け付けなかったのもあったのでしょう。

 

就労支援施設に戻ってからは、なにか居心地が悪いというか、不思議な感覚でした。

 

ずっと働いていたところなのに、変な感じで、口数も少なかったと思います。

 

常にみんなに頭を下げていた気がします。

 

ふがいないと自分自身が思っていたのでしょう。

 

処方された薬を飲み、就労施設に通っているうちに、少しずつではありますが症状も安定してきて、口数も増えていったのを覚えています。

 

次第に頼まれる仕事も増えてきて、不安障害ということで区別されることもありませんでした。

 

嬉しいこともありました。

 

病気になったころに受けた調理師免許の試験に合格したのです。

 

試験というものにはじめて自力で立ち向かい、勝ち取った免許でした。

 

社会福祉協議会の人たちは、私がいずれは戻るものだと思っていたようですが、私は介護の仕事に戻るつもりはありませんでした。

 

また先の見えない毎日が始まったのですが、それからしばらくしてから、今の仕事に出会いました。

 

就労支援施設なので、外へ仕事に出されることもあったのですが、その中で出来高払いの仕事に出会ったのです。

 

当時、就労施設からもらっていた工賃よりも、出来高の方が高くなったので、社会福祉協議会の人に相談しました。

 

しかし工賃を上げることはできない、と言われたので、私は決死の覚悟で就労施設を出て、出来高払いの仕事に飛び込んだのでした。

 

今、思えばよく飛び込んだものだと思います。

 

そこで週に5日、働いて手にしたことのないお金を手にすることになったのです。

 

そうして体にはきつい仕事でしたが、お金のために働いていたら、それを見ていた請け負っている工場が私を認めてくれ、雇用してくれたのでした。

 

時給で再び働く日々が始まったのです。

 

その時の上司は二人。

 

現場監督とセンター長。

 

現場監督は仕事を効率よく、儲けを出すことを最優先の人で、センター長は女性でそんな現場監督に時には叱咤されながら、回っている会社でした。

 

残業手当もつくので、残業もしました。

 

繁忙期は10月から12月。

 

この時期は人生で一番働いた記憶があります。

 

特に12月は家に寝るために帰るだけ、会社にシャワーがあったら、泊る、と現場監督は言うほど、忙しかったです。

 

それでも必死に食いついていきました。

 

しかし次第に現場監督とセンター長のいがみ合い、多分本人同士はそこまででもなかったのでしょけれど、横で聞いていると嫌になるほど、仕事に関して言い争い、重たい空気が漂っていました。

 

雇用された頃、私はついていく、とセンター長に宣言したのでしたが、結局、ついていけなくなったのだと思います。

 

年が明け5月が来たあたりから、何か変だと感じるようになったのです。

 

仕事に行きたくない、病院に行っても、薬を飲んでも気分が晴れない日々が続き、次第に仕事をやつ見がちになり、病院を変えることにしたのです。

 

その時にはもう働くことができなくなっていて、病院から診断書をもらい、会社へ提出したのでした。

 

現場監督は私が無給になるのを心配していたのでしょうけれど、口の悪い人でしたので、私が責められている気分にあの時はなりました。

 

とりあえず一カ月、有給もなかったので休むことにしました。

 

休んでいるうちに気付いたのです。

 

もう普通には働けない、と。

 

そこでまた出来高払いの仕事の方へ戻ることにし、契約更新をしないことにしたのです。

 

契約更新したところで、仕事にはいけなかったでしょうし、行ったとしても、迷惑をかけるだけだと思ったからです。

 

責任のある仕事から解放され、出来高払いの仕事に戻ったのは良いのですが、最初は良かったのです。

 

ですが次第に休む感覚が増えてきて、体調がすぐれない時期も長くなり始めました。

 

今のお医者さんは薬をあれこれと変えることばかりで、話は病気のことだけ。

 

それもいいかなって思いながら通院しています。

 

今のお医者さんから直接言われたわけではありませんが、うつ病でした。

 

診断書にはうつ状態、と書かれていました。

 

うつ病になると切っても切り離せないのがお金の問題です。

 

働けない。

 

収入がない。

 

親と暮らしているとは言え、親が全部出してくれるわけではない。

 

ますます仕事に行けなくなる。

 

そこで私はなにか制度がないかと調べたところ、障害年金の存在を知ったのでした。

 

これは手続きにかなり手間がかかります。

 

頭の周らない人間にこれまでの経緯、つまり私がこうして書いているブログにあるように、病気はいつから始まったのかなどを書かせる書類があり、さらには前の病院でいつから通院が始まったのかの書類を書いてもらい、今のお医者さんに診断書を書いてもらい、年金事務所へ提出し、訂正されまた書き直す。

 

これをうつ病患者にやれというのですから、きつかったです。

 

それでもこうして書くことが苦にならない人間なので、書類を書くことはできました。

 

そういうのを請け負う仕事もあるそうなのですが、私はお金がないので自分でやりました。

 

なんとか受給できるようになり、現在はなんとか年金暮らしで、体調がよくなれば、仕事に向かうこともできます。

 

しかしうつ病が悪化すれば長期間、休むことになります。

 

雇用ではなく内職扱いなので、クビや雇用契約はないのですが、働いていないという現実が押しつぶしてくるのです。

 

健常者の人も考えてみてください。

 

毎日いっている仕事、抱えている仕事ができなくなり、数カ月、あるいは年単位で仕事に行けなくなる。

 

迷惑をかけているのは、自覚しているのです。

 

心が痛いに決まっています。

 

それがまた不安となり悪循環を生むのです。

 

一時期はスピリチュアルにはまった時期もありました。

 

トイレ掃除、玄関掃除、般若心経。

 

これらは生活を豊かにはしてくれますが、うつ病を治してはくれません。

 

病気はお医者さんしか治せないのです。

 

2021年はほとんど仕事ができませんでした。

 

一年の収入が笑えるほど少なかったです。

 

2022年は、年明けから調子がよく、順調に働いていたのですが、三月くらいから何か変だな、と思い始め四月はようやく仕事に行くことができ、ゴールデンウィークで、うつ状態が爆発しまた仕事に行けなくなりました。

 

そして今に至るというわけです。

 

次回はうつ病の私が続けていること、治そうとかそういうのではなく、ただ続けていることを書きたいと思います。

 

 

気分を変え、今日見た映画の話をしましょう。

 

本日見た映画は韓国映画です。

 

あまり韓国映画は見ないのですが、面白そうなので「夜叉‐容赦なき工作戦‐」を見ました。

 

堅物の正義感のある検事がある事件で左遷され、復帰させるから香港のあるチームの様子を見てこい、と言われ香港へ行くと、韓国、北朝鮮、中国、日本が諜報活動する諜報戦の戦場だった、という物語です。

 

この映画はネットフリックスで配信されている映画です。

 

見られる方はおすすめします。

 

 

 

社会とのつながり

 

引きこもりの頃、社会とのつながりはなかった。

 

両親の判断でインターネットは家になく、携帯電話も自分で稼ぐようになってから、ということで、引きこもることで自然と社会との接点を遮断したわけである。

 

それでも叔父の叱咤、職探し、免許取得など、変わったこともあった。

 

しかし普通免許を持っている、学歴のない、社会経験もない人を、雇う会社などない。そもそも働くということに、臆病になっていた。

 

今から考えると、これも鬱の症状だったのかもしれない。

 

単なる甘え、と取るか、病気、引きこもりのジレンマ、と取るかは読者の皆さんに任せます。

 

免許取得からしばらくして、前回の記事で書いた通り、地元の社会福祉協議会から電話があったのです。

 

「新しいことをやるから、来てみないか。説明会をするから出てこれないか」

 

最初はなにか仕事をくれるものかと思いました。

 

そしていざ、社会福祉協議会へ足を運ぶと、新しいこととは、就労支援、引きこもり支援のことでした。

 

私が社会福祉協議会と接点を持った時、社会福祉協議会の局長は、引きこもりの人の調査、引きこもりの人は働く場所を求めているのかもしれない、と考えたそうなのです。

 

そこで調査した結果、私が住んでいる町には多くの引きこもりと呼ばれる人たちがいることが判明し、それを何とかしないといけない、と思ったそうで、新しく引きこもり支援施設を作ってしまったわけです。

 

これは社会福祉の業界では有名な話です。

 

説明会には私を含め、もう二人の方が来ていました。

 

そこで言われたのが、お食事処を開きたい、引きこもり支援をしたいなどでした。

 

お食事処をとりあえず開くのに時間がなく、そばを打つ練習をさせられました。

 

町に蕎麦屋がないので、競合しないそばをメインにしたお食事処にしたそうです。

 

それから私はそば打ちの先生からそば打ちを習い、練習を続けました。

 

あの時の気持ちは不思議と、嬉しかったのを覚えています。

 

社会と繋がりができた。

 

それが単純に嬉しかったんです。

 

その後、お食事処を含めた施設のオープンセレモニーが開かれ、私を含めた数名の引きこもり当事者たちが、そば打ちをしたのでした。

 

それからお食事処を営業する、という仕事ができたわけです。

 

と言っても、賃金は発生しませんでした。

 

制度に当てはめる前に初めてしまったらしく、賃金が払える制度が整っていなかったのです。

 

正直、ただ働きが次第に嫌になっていたのは事実です。

 

それに社会とのつながりというのも、慣れてしまえば、人間関係に悩むことになります。

 

私は雇用されていなかったので、お客さん扱いされていたと思います。

 

それでも引きこもりが外に出て、決まった時間に同じ場所で、同じ作業をする。

 

当たり前のこの行為が大変でした。

 

きっと社会人ならば平気なのでしょうけれど、私にはそれがたまらなく大変でした。

 

そうしているうちに、制度が整い、工賃という形で、お小遣い程度のお金を手にすることができるようになりました。

 

それから五年以上、その施設でいろいろとやるのですが、それは別途で社会福祉協議会が本を出していますので、興味がある方はそれを読んでください。

 

その後、社会福祉協議会の仕事を少しずつ手伝うようになり、臨時雇用として雇われることになりました。

 

その時は、同じように仲間の一人も臨時雇用で雇われました。

 

責任がつく仕事が増え、上司との人間関係にも苦悩し、本当に苦しい日々が続きました。

 

それでも辞めなかったのはなぜか。

 

自分から主体的に動くのができない人間なのです。

 

どれだけ上司と合わなくても、仕事が辛くても、嫌です、が言えませんでした。

 

それでもお食事処メインで仕事をしていたから、まだ耐えられたのかもしれません。

 

料理が好きでしたし、目標として、調理師免許の取得もありましたから。

 

しかし調理師免許の勉強と仕事を必死にやっていた最中、突然の異動を命令されたのです。

 

社会福祉協議会の臨時職員ですので、異動は当然ですし、料理だけをしているというのを、認めてくれるところではなかったのです。

 

異動先はデイサービス。

 

ヘルパー二級を取っていましたが、福祉の経験のない私ができるのか、不安でした。

 

この異動の話の時から、眠れなくなったのです。

 

不安と何とかなるのではないか、という二つの感情が私の中でぐるぐると回り続け、ごはんの味もしない、眠れない、テレビを見ていても面白くない。

 

何も手につかないまま、デイサービスに異動する日が来ました。

 

説明してくれる人がついてくれるのか、そんな甘い期待もむなしく、人での足りない職場はその場、その場で説明するので、次の仕事、次は何をするべきか、まったくわかりませんでした。

 

とにかく言われたことを一生懸命やり、疲れて帰っても、明日が来る、と考えると眠れませんでした。

 

このころの記憶はあいまいで、なにをしていたのかよく覚えていないのです。

 

そしてまた人間関係でも苦労しました。

 

口の悪い人はどこにでもいるとは言いますが、本当に口が悪く、厳しい女性の先輩がヘルプで来て、私に目を光らせていました。

 

その先輩は異動したので、デイサービスの人ではなかったのですが、デイサービスが長い人で、この人がいなければ回らない、とまで言われている人でした。

 

その人だからこそ、私が危なくみえたのでしょう。厳しい言葉、視線、注意、叱責。

 

たった二日、ヘルプで来たその人に、私は、壊されたのです。

 

眠れないのが一カ月続いた私は、ついに限界を感じ、自分から精神科に向かったのでした。

 

精神科を選ぶ条件として、私はまず休日、土曜日に診察してくれるお医者さんを選びました。

 

その方が、仕事をする上で便利だと考えたのです。

 

今思えば、仕事のことなど考えず、平日でもいいので、いける精神科に行けばよかったと考えています。

 

土曜日に行った精神科は、個人でやっている、古い医院でしたが、親身になって話を聞いてくれました。

 

「よく頑張ってるね、もう大丈夫だから」そういわれたと思います。

 

きっとそれを聞いて、うつ病の人は涙するのでしょう、看護師さんにティッシュを差し出されたのを覚えています。

 

しかし私の鬱は感情がもうなくなっていたのでしょう、涙すら出てきませんでした。

 

診察結果は「不安障害」とつけられました。

 

お医者さんも一応、つけただけだと後にポツリとしゃべっていました。

 

ここでうつ病と診断された方が、もっと早く治療に専念できたのではないかと、少し思っているところもあります。

 

とりあえず病名がついたので、当時の上司に話したところ、「休め。有給を使ってでもいいから、休め」と言ってくれ、それと「お前に介護は向いてない」ときっぱり言われました。

 

見ていてきっと分かっていたのでしょう。

 

その後、社会福祉協議会の別の上司と面談をし、デイサービスに戻りなさい、と言われましたが私は初めて、断りました。

 

そして契約更新はできない、と言われ、その年の末をもって自主退職となりました。

 

もちろん退職金もなく、また就労支援施設へ戻ることとなったのでした。

 

こうやって当時の事を書いていると、いろいろ思い出しますね。

 

正直、滅入ってきています。

 

気分を変えるべく、今日見た映画の話を少し。

 

今日見た映画は「ディープ・ブルー2」

 

先日、最初の無印を見たので、続編を見ることにしたのですが、期待できない予算削減映画でした。

 

鬱になって一つ得たことがあります。

 

それはホラー映画が平気になったこと。

 

ホラー映画を観ても、怖いという感情がわいてこなくなったことです。

 

映画の見る幅が増えたのは良いことだと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

叔父さんの登場

 

前回では引きこもりになってから、アニメ、映画三昧していて、焦りから小説を書こうと決意したところまでを書きました。

 

今回はそれからです。

 

ずっと小説を書いていたかというと、そういうわけではありません。

 

世の中には十代から毎日、積み上げている人もいれば、ただ何となく書いた小説が、偶然、賞を取る、なんてこともあります。

 

妄想の中ではそういうことが私にも起こるのだと期待した時期もありました。

 

懸賞小説に応募しては、落ちるを繰り返します。

 

結構、きついんですよ、半年、一年かけて書いた小説が、はがき一枚で落選。

 

はがきが来ればよく、なんの音沙汰もない出版社がほとんどです。

 

落選して、小説を書くのを止めていた時もありました。

 

そんな時でした、叔父が家にやってきたのです。

 

家族との関係は別に良好でしたし、小説家になる、と家族には公言していました。

 

ですが、叔父も最初は普通に聞いていたのです。

 

ですがお酒がだんだん入ってくると、わざわざ私の部屋までやってきて、説教を始めたのです。

 

「車の免許を取れ、思い通りにさせてもらっているのが、一番贅沢なんだぞ」

 

この言葉は引きこもりにはきつかったです。

 

これまで引きこもりなりにも築き上げてきたものを、否定されたのですから。

 

しかもそれが正月のことですから、最悪の正月になりました。

 

最悪すぎて、その正月、テレビ番組を何を見たのか覚えているくらい、衝撃でした。

 

その年、私は叔父に叱咤激励されたのが効いたのか、就職活動というものを始めたのです。

 

と言っても、学歴もなければ何かの免許があるわけでもない。

 

とりあえず近くの特別老後施設に電話をかけて、アルバイトを募集していないか聞きました。

 

すると地元の社会福祉協議会が人を募集していたらしく、私は同級生の母親が局長を務めている社会福祉協議会へ電話したのです。

 

それまでも、社会福祉協議会の人が突然、家にやってきて、ドライブに行ったこともありました。

 

どうやら社会福祉協議会では引きこもりについて、いろいろと事業を考えていたようだったのです。

 

そこへ私が電話したので、とりあえず面接に来てください、ということで、初めて会社の面接というものを受けました。

 

と言っても、同級生の母親が私の引きこもりの状態を気遣ってくれて、顔を見たかった、という程度でした。

 

面接要項を読むと、何一つ当てはまっていない私に、面接しかくなどあるはずもなかったのですから。

 

とりあえず、社会福祉協議会で、ちょっとしたお手伝い的なことをすることになりました。

 

それは社協が無理やり作ってくれた仕事だったみたいです。

 

その後、数カ月のお手伝いを終え、私は車の免許を取りに出ました。

 

引きこもってから初めて、どこかへ時間に合わせて出かけるという経験でした。

 

毎日、自動車学校に通ったので、半年で免許を無事にとることができました。

 

しかしです。

 

引きこもりが何かを達成したら、また次へ進むのがどれだけ大変かということを知ることになります。

 

免許を取って、就職活動、と考えていましたが、よく考えれば普通免許しか持っていない、学歴のない、引きこもりをどこの会社が雇用するというのでしょうか。

 

そんなうだうだした二年が続いたある日、また社会福祉協議会から連絡があったのです。

 

この次は私が社会とつながるきっかけになった出来事を書きたいと思います。

 

今日見た映画。

「チャイルド・プレイ チャッキーの種」です。

カルト的人気シリーズ、チャイルド・プレイにブラックコメディ要素を加えたうちの、一本です。

この作品、現実世界でも作中の歌を殺人犯が歌うなど、少し物騒なこともありましたが、今も続く、長期シリーズです。

 

 

 

 

 


うつ病の治療で病院に来てるので、待ってる長い時間を活用して、前回の続きを書こうと思います。


高校入学後2週間で不登校、1年後に自主退学した私。


それでも思い出はある。


勉強にまったくついていけなかったこと。


別の学校から来た新しい友達ができたこと。


ただ携帯電話もパソコンも持っていなかった私は、あの当時でも連絡の付きにくい人間だったこともあり、不登校になってから、家電に一度、新しい友達から連絡があった程度で、人間関係を断ち切ったというのが正しいかもしれない。


勉強も嫌で、人間関係も嫌で、学校に行かなくなり、その頃は家族とも口を聞かなかった。


田舎に住んているから、夜で歩く場所もなく、かと言ってネット環境もない私は、引きこもり、部屋でその当時はVHSだったメディアを活用し、中学で友達から進められて見ていた、大量のアニメと映画ばかり見ていた気がする。


マジンガーZからゲッターロボ、ガンダムシリーズを中心に見ていた。


見るアニメがなくなると、母の運転する車でレンタルショップへ行き、ビデオをレンタルした。


小学校の頃に流行った新世紀エヴァンゲリオンにもこの頃、再びハマったし、今もハマっている。


そんな生活が続く中、東京に住んでいる叔母が夏に遊びに来た。


その頃は両親とも話すこともせず、本当に部屋にこもっていた。


叔母が来て私なりに気を使ったのだろう、普通に見せようとして両親と話すようになり、その頃から両親と話すようになった。


しかし引きこもりの生活は変わらず、昼夜逆転の生活になり、夜中にご飯を食べ、太った。


この頃、個人的に一番太っていた。


引きこもりながらも、地本の祭りになったら出かけていた。


テレビでよく言う、家族とも世間とも関係を断ち切り、部屋に鍵をかけて閉じこもるのとは、違った。


親の金を使い、ビデオを借りたり、漫画本を買ったりしていた。


そんな中でなにかしなければ、なにか将来なれるものを探しじめていた。


気づいたら焦りが出ていたのだろう。


そこで見つけたのが[小説]だった。


幸い、家には古いワープロがあり、タイピングは独学で覚え、小説を書いて少年ジャンプのコンテストに応募した。


本を読むのが嫌いな私が書いた、素人の小説が賞を取れるはずもなく、それから何度も別の小説の賞へ応募したが、箸にも棒にも引っかからなかった。


そこで私は初めて、小説を買って読んでみようと思った。


それが山田風太郎「甲賀忍法帖」だった。


普段、こんなマニアックな小説が平積みされてるはずはないのだが、その時、たまたまフェアかなにかで平積みされていたのを、ジャケ買いしたのだ。


これが私の好みの摩訶不思議な忍者たちの物語で、今でも好きな作家になっている。


そこから私が書きたいものはなにか、を探し求め、SF、世界一壮大で長いSF小説を書きたい、と思い、構想を練り始めるわけであるが、それは別の話である。


引きこもり生活はというと、相変わらず、自分の中で小説を書きたい、という野望はあるものの、世間は何もかも変わらず、状況も変わらなかった。


そうして高校を辞めて8年近くが過ぎた頃、ある変化が起こる出来事があった。


今日はこの辺にしておこうと思う。


今日はまだ映画を見ていないので、最近読み始めた小説を1つ。


「デューン 砂の惑星」


何度も映画になり、最初のあれ半ドロ・ホドロフスキー監督の構想が好きな映画の原作である。


まだ読み始めたばかりだが、映画を見ていなかったら、わからない世界観かもしれない。


最初はほのめかすくらいなのだ。ホドロフスキー監督も言っていたが、最初の100ベージはほのめかす程度だそうだ。


確かに世界観がまだつかめていない。


また気が向いたら、ネットワーク業界ではタブーな自分語りをしたいと思います。