「暗さ」の優位性。
ずっと気になっていたことがある。
人の「暗さ」と「明るさ」を一緒に並べた時、いつも重要視されるのが「暗さ」ばかりなのは、どうしてなのだろう。
何故か「暗さ」と「明るさ」は等位なものとしては、並べられない。
それがとても不思議なことのように思える。
「暗さ」が重要視されるのは、人の生死に関わっているから当たり前だ、
という考え方もあるとは思うが、
「明るさ」が人の生死に関わっていない、ということが誰に言い切れるのか。
そもそも、どこからどこまでが人にとっての「暗さ」で、どこからどこまでが人にとっての「明るさ」なのか、正確に線引きするのは難しいし、それ自体が強引なわけ方だとも思う。
心の変化を「明るさ」「暗さ」という単純な二分化することで、取りこぼしていることもかなり多くあることだろう。
(「明るさ」という表現が、適しているのかどうか。標語のような響きがして嫌な感じ。人が生きていくにあたりの「面白み」とでも言おうか。例として「おいしい」とか。「楽しい」とか)
でも、あえて強引なわけ方で話をすすめてみると、
「明るさ」は、ずっと軽視され、掘り下げなくてもいいものだ、と思われている気がする。「暗さ」よりは取るに足らないもので、掘り下げる必要はないものだと。
人が行動を起こす背景には、「暗さ」の側に属する、葛藤とか、つらい追いたち、ばかりが結びつけられる。
いっそのこと「暗さ」「明るさ」という二つの区分を取り払い、一つのこととして捉えようとした時でも、「明るさ」は「暗さ」の側に吸い寄せられなくてはいけない、という気がしてしまうのは、何故なんだろう。
それは、いつから自分の中に生まれた考えなのだろう。
誰におそわることもなく、自分の中に根源的にあった考え方なのか……いや、たぶん、違うんだろうな。
「暗さ」を経験してきた、と言うある人が、人の「暗さ」について自ら語るとき、近くにいる人間にまで同じ「暗さ」を強制しよう、とする働きが生まれてくるのは何故なんだろう。
そういう人に限って、実は本当の「暗さ」を垣間見たことさえなかったりする。
(「暗さ」を自ら体験した人は、黙っていることが多いから)
自ら「暗さ」の淵に落ちていくことはなくて、ずっと岸と淵の境目、入り口付近をうろうろしていたりする。
何故そんなところで、うろうろしているのかと言えば、
誰かを突き落とすことで、
人の持つ「暗さ」がどれほどのものなのか確かめてたい、と思っているのかもしれないし、
あるいは「暗さ」に惹かれていくことで生まれる自己嫌悪のようなものを、少しでも目立たなくしたい、と思っているのかもしれない。
いずれにしろ、そこには、
「暗さ」について考えることが「明るさ」について考えることより、ずっと価値があり、優れている
という、ものの見方が前提としてあるようだ。
まるで、とらわれてしまっているみたいに強固なほど。
その動き、伝わり方こそが、「暗さ」についての内容よりも、問題を引き起こすこともあるというのに。
2010.8.9