人間が「今」と感じるのは、
安静時では、前後3分ほどであるらしい。
この3分は相対的なものであるから、
何かに縛られている間、この時間感覚は変わる。
例えば、過去に縛られている間、今は続いている。
それほどの価値が自分にあるとは思っていなかった。
ついでに言えば、価値が自分にあるとは今も思えない。
「軽く口説いただけで、簡単に落ちる奴」、
だと思われたのが気に入らない。ショックだった。
それ以上に、実際に落ちたのだから、
そんな自分には益々、価値があるとは思えなくなった。
確かに当時は、そして今も時々は、
「自分がどうなってもいい存在」、
だと思うことがある。
「誰にどう思われようが、軽蔑されようが非難されようが。
ただ今、自分がしんどいから、どうなってもいい存在」
そう思っているくせに、ショックを受けるのだから、
本当に自分がわからない。
結局のところ、甘えたかったのだ。
甘えさせてくれるものだと、勝手に思っていたのだ。
だから、その人のテリトリーに踏み込んだとき、
その人は壁を作り、その顔を見せなくした。
声も聞こえない。
時々投げた石が戻ってきても、
それが俺の投げた石なのか、その人が選んだ石なのか、
本当にその石をその人が投げたのか、
本当にその石をその人が俺のために遣したのか、わからない。
今も修復不能で、つまり関係を壊したのは、俺だ。
俺が、近づきすぎたのだ。
寂しかったから、甘えたかったから、
そして何より、
俺はその人にとって価値があるんだと、勝手に思い込んでいた。
その人にとって、俺は価値を持たない。
少なくとも「今」は。
過去や未来においては解らない、と、しなければ、
俺は救われない。
救われたい?何に?今更、どんな答えを俺は求めてる?
過去から何も学ばない内は、成長しない。
同じ過ちを犯さないように、と思っているのに、
時々、その人の「次の人」を考えている自分が居る。
次の人に、俺は何を求めてるんだろう。
また、あの時と同じように、
甘えさせて欲しい、と、自分のしんどさから癒して欲しい、と、
本気で思っているのだろうか。
どうして、「今の人」で満足できないのか。
俺は、何を求めているのだろうか。
第三者から自分の価値を相対的に求めたとしても、
いくら対象を増やして、自分の相対的価値を得たとしても、
自分で自分の価値を決める作業をしない限り、
絶対的な自分の価値が確立しない。
つまりそれは、自分の価値がわからない、という状態だ。
「今」、必要なのは、他人じゃない。
自分への優しさで、自分を甘えさせてやる事なのかもしれない。