私は幼い頃から共働きの家で育ったため、子どもは世間が育ててくれるものという考えのもと、家で留守番している時間が長かったようにおもう。
今でも一人の時間が落ち着くのはそのためではないかと思うときもあるほどだ。
世間的には実家には祖母が同居していたので私はひとりで留守番しているということでは無かったはずだ。
しかし実際には、足腰が不自由な祖母は私が産まれた頃には、数メートル歩行器であるくのがやっとであった。 家の中は、玄関から廊下で分かれており二世帯といった方がわかりいい構造だ。 祖母に合うことができるのは、朝ご飯と夜ご飯の時間だった。
母か父が帰る時間まで、または兄弟が帰るまで、暗くなるまで、私がどう時間を消費するか、友達の家に行くこと、外で遊ぶこと、それが一番よかった。 もっと小さい頃はひたすら兄や姉と遊んで時間をつぶした。保育園に兄弟が迎えにくることもあった。
ソファーを壊すほど跳ね続けたり、跳び箱代わりにしたり、ハサミでカーテンを切ってみたり階段から毛布で滑り降りてみたり。私たちの遊びは誰にも知られず、母はそれらを知っても、さして注意しなかった。 そしてどこまでが悪いことか、知らないまま小学生になった。 今でも、どの程度の悪さに該当しているかはっきりとわからない。
当然、先生に注意されることがあった。
それは、ある日学校の窓から外に出た時だった。 集団生活のルールを守れないものがいるのは先生に都合が悪いことであるのはよく分かる。厳格な先生でありとても心配させてしまったことを申し訳なく感じたり、同時に社会と家庭生活のギャップを感じた初めての出来事だった。
親がいないときは窓から家にはいることもでることもあった。 私たちの生活というのは、何とも、ふしぎな文化ができていたのだった。
高学年になると、孤独感がつのるようになっていた。習い事のない日は、友達の家に夕飯の時間になるまでいた。一人で家にいる時は、時間があっという間にすぎるように工夫した。
ひたすら絵を描くことは夢中になれる、気がつくとあたりが真っ暗になるほどに熱中できた。
今年の夏 私はひとりで祖母の部屋の仏壇に供える花を選んだ。
かわいらしいピンク色と薄紫。似合う。うんと淡い優しい色。 祖母は、きっと犬や花がすきだったのだ。 あら、きれいなお花、あらかわいい。そう言いながら居間まで、用がなくても遊びに来ることがごくたまにあった。
キッチンに立つ私に水入れてくださる、といい、あいさんがいると、ぱっと気持ちが明るくなる、と言ってくれたことがあった。 私が二十歳をすぎて実家に顔出した時だっただろうか。
初めて私についてのことを口にしていたので、とても記憶に残り とても嬉しかったのを覚えている。わたしも少しは何かの役に立っていたのか、祖母にとって必要な存在であったのかと感じた。
それからほとんど寝たきりの時間が増え、私が結婚する事を伝えると、あらぁそう。といった。 そのあとすぐに施設に入り、孫の顔を一度見せに行った。とても明るいようすだった。
一人でいるより、誰かと居られることは素晴らしい。 最期まで笑顔で過ごせて本当に良かった。
今思い出すと、私が風邪をひいて学校を休んだ時には、母は仕事も休めないので、祖母が隣のお部屋にいるからね、と声を一言かけてくれたこともあった。とはいえ、足が悪いので階段も上れないので、私の部屋には来れるはずがないのだが。 その言葉がどれだけ心強かったか分かりません。
先週、友達と老々介護の話をしていたのでふと思いだしました。こうして何度も、幸せな記憶とともに祖母の笑顔を思い出せること うれしく思います。
お友達をはじめ、施設の方や様々な方にお世話になり、感謝のきもちでいます。 それでは
また。