「ゆれる」「ディア・ドクター」の西川美和監督が、第153回直木賞候補作にもなった自著を自身の監督、脚本により映画化。人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、突然のバス事故により、長年連れ添った妻を失うが、妻の間にはすでに愛情と呼べるようなものは存在せず、妻を亡くして悲しみにくれる夫を演じることしかできなかった。そんなある時、幸夫は同じ事故で亡くなった妻の親友の遺族と出会う。幸夫と同じように妻を亡くしたトラック運転手の大宮は、幼い2人の子どもを遺して旅立った妻の死に憔悴していた。その様子を目にした幸夫は、大宮家へ通い、兄妹の面倒を見ることを申し出る。なぜそのようなことを口にしたのか、その理由は幸夫自身にもよくわかっていなかったが……。<映画comより>
素晴らしい作品を産む芸術家が、
素晴らしい人間で人格者であるかどうかは比例しない。
人を惹きつけたり、革新的なものを世に出したからといって
人間的に魅力的かどうかは比例しない。
才能と人柄は全然別。
人を好きになることも、理由を並べて自分に言い訳しようとする。
それも結果、後付けのような気がする。
情が薄く、作家として売れてから
多少の傲慢さを身につけ
バレていないだろうと浅はかに愛人と逢瀬を楽しむ自己チューの幸夫。
情が薄くて他人に対しての興味が薄っぺらぺらなそこそこのクズ。
クズでお幸せな主人公に
突然の「欠損」が起こる。
倦怠期だったから、愛情がなかったから泣けないという感情というより、
欠けることがないだろうと思っていた奢りというか、戸惑いというか
相手への関心がたまたま希薄になっていた時期に来た「欠損」
愛人の真っ当なしょげっぷりにも関心がなくて、
つい押し倒してしまうゲスっぷりも見透かされて愛想をつかされる。
勝手なもので、
妻がなんとなくいなくなった現実を
ジワジワ感じ始めたとき
彼女がどういう思いだったのか?
ふっと、スマホの電源を入れる。
幸夫宛の下書きメールは
本心だったのか?
一時的な感情だったのか?
言葉の持ち主の彼女はもういないのだから、本心はわからない。
ただの感情の端末に過ぎない。
大いに傷つく過程で
幸夫は、「愛のようなもの」に関心を向けてみる。
それが大宮親子に入り込んだ理由の一つのような気がする。
「必要とされること」「必要とすること」の必然が
子育てにはあって
擬似であっても
どっぷりとはまっていく幸夫。
自分の言った一言で、気を使われて
大宮が考えた得策を聞いて
女々しく嫉妬する。
阿保だ。
だけど生々しくも人間臭い。
どこか凸凹で不器用な人間だらけの
登場人物。
人はどこか欠けていて、どこかで寄り添って
なんとなく生きている。
お話の後半、髪を切る幸夫。
ずっと、妻に切ってもらっていた髪。
こざっぱり生きていけたのも
ずっと妻が当たり前のように
髪を切ってくれていたから。
生きていると、いつの間にか
髪も爪もだらしなく伸びる。
生きているのだから。
そうやって自分の端っこを
少しづつ切り捨てながら生きてる。
物書きは言葉を吐き出しながら
だらしなくも情けなくも生きていく。
クズでもゲスでも
愛されない理由はない。
★★★★☆
