とりあえず、こんばんわ。局長です。

ファミチキの油淋鶏味は脂っぽさに酸味が入ってる感じで、

すごく独特な味がするんですよね・・・。

うーん、もうちょっと美味しくならなかったのか。

 

というわけで、前回の続きでも。

九州鉄道記念館の2階にて、様々な展示を見ていく局長。

次に見たのは九州の鉄道の歴史が書かれたボード、

九州の鉄道史は江戸時代末期にまで遡っており

そして平成の時代まで書かれていたのですが・・・

何というか、新橋~横浜まで初めての列車が走るより前に

長崎の大浦海岸で僅か600m程の試験線なんだけども

旅客を乗せる事が出来る列車が走っていたのは初めて知りましたね。

そんでもって、宮崎のリニア線や九州新幹線開業などなど

様々な歴史を見て行った局長、もうちょっと見て行く事に・・・。

 

九州の鉄道発達史のコーナーの上部には当時の写真や

イラストがあるのですが、それをちょいとパチリとしてきました。

まずは『佐賀藩精煉方絵図』というのをパチリと1枚。

絵の真ん中には蒸気機関車を走らせている模型が描かれています。

今では地味だのなんだので弄られる佐賀県なんですが

その昔は当時の最先端を行こうとしてるから驚きですよね・・・

 

局長「この絵図は、1852年に佐賀藩が多布施に設置した『精煉方』の様子を推定して1927年に描かれた絵図なんだ」

莉緒「1927年に描かれた絵なのね。ところで、『精煉方』ってどんなところなのかしら?」

局長「今で言えば、STAP細胞はありますと言った小保方がいた『理化学研究所』のような存在だ。福岡藩と共に長崎警備を担っていた佐賀藩が、軍備の近代化を進める目的で1852年に設置した施設なのだ」

莉緒「精煉方って所謂、一種の研究施設だったのね」

歌織「そこで蒸気機関車の研究も進められていたんですね」

局長「そういう事になる。この絵図、描かれているのは蒸気機関車だけじゃないぞ。右側をよーく見てごらん」

歌織「右側・・・あっ、船も描かれていますね!」

莉緒「ホントだわ。蒸気機関車の模型があるって事は、船は蒸気船とかそういう類の物なのかしら」

局長「そういう事になる。ここでの蒸気船の研究は、後に日本初の実用蒸気船『凌風丸』の建造にも結び付いたんだ」

莉緒「へぇ~・・・」

局長「ちなみに、精煉方を走った機関車がどんな物だったかは、大宮にある鉄道博物館に写真があるぞ」

 

↓その写真はここからどぜう

 

 

 

 

続いては1889年に撮影された写真をパチリと1枚。

九州鉄道が設立されて1年後、1889年に博多~千歳川仮停車場に

九州で初めての鉄路が敷かれた当時、九州鉄道の本社はといえば

門司じゃなくて博多に仮本社があったのです。

ここから九州の浪漫ある鉄道が広まっていったのかと思うと、

うーん・・・なんか言葉に出来ねーよな。

 

局長「ちなみに、九州鉄道開業時から現在まで残っている駅は、福岡市にある博多駅、筑紫野市にある二日市駅と原田駅、佐賀県鳥栖市にある田代駅と鳥栖駅、熊本県宇土市にある網田駅となる。網田駅は三角線でそれ以外の5つは鹿児島本線の駅になるぞ」

莉緒「この6つの駅は100年以上の歴史がある駅なのね」

局長「そういう事になる。ちなみに、佐賀県鳥栖市にある鳥栖駅は鹿児島本線と長崎本線が乗り入れているが、元々は1つ手前の田代駅にて長崎本線を分岐させる予定だったんだ」

歌織「そうなんですね。どうして鳥栖駅で長崎本線を分岐させたんですか?」

局長「詳しい資料は残っていないので明らかではないのだが、鳥栖の実業家である八坂甚八が中心となった誘致運動があったから・・・だと言われているんだ」

歌織「それって、局長が前に言ってた『鉄道と政治』によるものなんですね」

局長「そういう事になるかな」

莉緒「実業家が本気になると、路線まで変わっちゃうのね」

局長「これが鉄道と政治っていうモノなのだな」

 

続いては完成間近の門司駅(現・門司港駅)をパチリと。

現在の門司港駅は東京駅と同じ1914年に開業し、

2代目駅舎として今も残り続けております。

1988年には駅舎が重要文化財として指定され、

そんでもって駅前はすごくキレイな感じになってましたね。

 

そして、画像左手には路面電車がチラリと見えており

『九州電気軌道開通式典の花電車』とあるんですが

この九州電気軌道こそが後に福岡県のみならず

日本の大手私鉄に認められるほどの巨大な私鉄会社となった

『西日本鉄道』のルーツとなった会社だとも言われています。

 

局長「ちなみに、西日本鉄道というと大牟田線とか太宰府線、あとは博多エリアの私鉄として有名なんだが、その昔は北九州市にも路線網があったんだ」

百合子「そうなんですね。今は北九州市に路線は無いんですか?」

局長「今は北九州市に西日本鉄道の鉄道路線網は無い。というのも、北九州市における西日本鉄道の路線網は『九州電気軌道』が作ったものが、後に西鉄北九州線に変わった物だったからな」

桃子「ねぇお兄ちゃん、その、西鉄北九州線ってどんな路線だったの?」

局長「西鉄北九州線は路面電車メインの路線だ。北九州本線、戸畑線、枝光線、北方線の4路線を有し、さらには黒崎駅前から筑豊電気鉄道線の熊西駅まで乗り入れる車両もあったみたいだな」

百合子「なんか、規模が結構大きそうな路線ですよね・・・」

局長「大きそうというか、京都市電の今出川線・白川線・丸太町線が廃止になった1976年4月1日から、戸畑線・枝光線・北九州線の一部区間が廃止された1985年10月20日までは日本最大の路面電車路線網を持っていたんよ」

百合子「それって、局長が2022年に行った広島の路面電車より規模が大きかったって事ですか?」

局長「そういう事になる。広島電鉄の路線を全部足しても、全盛期の西鉄北九州線には距離で及ばないんだ」

桃子「お兄ちゃんが言ってた広島電鉄よりも、西鉄北九州線の方が規模があったんだね。それでも、今は走っていないんだよね。なんで無くなっちゃったの?」

局長「沿線にあった製鉄所の規模縮小、自動車が増えたことによるモータリゼーションの進行で客が減ってしまい、そんでもって国鉄が近郊電車を走らせたり駅を新設した事でさらに打撃を受けた。さらには北九州市にはモノレールがあるんだが、そのモノレールを建設するための土地提供によって北方線が廃止となっていった。そんで部分廃止も進み、1992年には路面電車と呼べる一般道路との併用軌道区間は全廃されたんだ」

桃子「お客さんが減っただけじゃなくて、モノレールを作るために路線が無くなる事なんてあるんだね・・・」

局長「しかし、それでも黒崎駅前~折尾間は並行道路が存在せずに代替が困難だったことから最後まで残されるも、2000年に鹿児島本線の黒崎~折尾間に陣原駅を設置する事を引き換えに黒崎駅前~折尾間も無くなってしまったんだ。これにより、西日本鉄道のルーツと言える路線は事実上消滅する事となる」

百合子「西日本鉄道のルーツとなった路線が全部無くなるって信じられないですよね・・・」

局長「時代の流れとは恐ろしいものよな・・・」

 

ちなみに、西鉄北九州線は筑豊電気鉄道線にも乗り入れてましたが

2000年に西鉄北九州線が廃止となった時には

筑豊電気鉄道線の黒崎駅前~熊西間は筑豊電気鉄道が

第二種鉄道事業者となり、西鉄が第三種鉄道事業者になって

新たに開業しましたが・・・

 

2015年に第三種鉄道事業者も筑豊電気鉄道が

引き受ける形となったので、西日本鉄道のルーツとなった

西鉄北九州線は名実ともに消滅する形となりました。

 

関門トンネルのシールド工事、そして特急『かもめ』をパチリと。

かもめについては、西九州新幹線の名前にも使われており

『つばめ』と共に九州を代表する名門列車になっていますね。

一方で関門トンネルに使われたシールド工法については

日本で3例目となりましたが、残り2つが不完全だったのに対し、

関門トンネルは完全なシールド工法で作られました。

 

局長「今じゃ、『鴎』は西九州新幹線の名前として使われているし、それ以前は長崎本線の特急列車の名前としても使われているから長崎の特急としてのイメージも強い列車ともいえるが、鴎という列車名自体は1937年に東京~神戸を結んだ特急列車に付けられたのが最初だな」

百合子「元々は九州じゃなくて、東京から神戸を向かう列車の名前に使われていたんですね」

局長「その時代の『鴎』は、『櫻』より30分先行する時間で運行され、同区間を走る『燕』、同時間帯を走る『富士』や『櫻』の補助的役割を果たしていたんだ」

桃子「特急の補助みたいな存在って、なんか変わってるよね」

局長「その補助的役割の鴎がいつしか九州で名門列車となり、やがて新幹線の名前にまで大出世したんだからなぁ。素晴らしいもんよな」

 

九州初の国鉄電車をパチリと1枚、これは何を言ってるのかというと

九州において鹿児島本線の門司港~久留米間が電化された事により

国鉄電車が走りましたよーっていうのを意味しています。

サンロクトオに先立つ1961年の6月1日に電化され、

関門トンネルを除く九州で最初の電化路線となりました。

 

局長「ちなみに、前にも話したが九州は交流によって電化されている。唯一、直流によって電化された路線は筑肥線の西唐津~唐津までの区間のみだな」

紬「そうなのですね。ところで、局長は前に鉄道には『交流』と『直流』があると言いました。なぜ、九州は交流電化で進めたんですか?」

局長「九州は戦後になって鉄道の電化が進んだんだが、その際に交流電化の試験が宮城県仙台市と山形県山形市を結ぶ仙山線で上手くいってな、鹿児島本線といった地方幹線には交流電化が良いんじゃないのって話になったわけだ」

茜「その、仙山線で上手く行ったから交流電化にしようって決めたわけ?」

局長「仙山線や鹿児島本線は地方幹線といって、山手線や東海道本線と違って大都市部より地方を走るだろ。列車も山手線や東海道線と比べても本数が多くない。だから、地上設備にお金を掛けるより列車にお金を掛けて地上設備にお金を掛けないという方法を取ったんだよ。そっちの方が地方では助かるってわけなんだ」

茜「へ、へぇ~・・・茜ちゃんにはよく分かんないかな~」

局長「こういうのは理科の授業になるかもだからな」

紬「ちなみに、局長は理科は得意だったのですか?」

局長「局長は理科より歴史の授業の方が得意だったなァ・・・」

 

ちなみに、九州は交流電化で電化したわけですが

これがアダとなってしまった

路線が存在したりします。

それが、『肥薩おれんじ鉄道線』だったりします。

 

紬「それは、一体どういうことなのでしょうか?」

局長「さっき言ったけど、交流電化は『車両高・地上設備安』がポイントなんだ。ましてや交直流対応の列車ともなればもっと高くなる。そして、2004年に九州新幹線の新八代~鹿児島中央間が先行開業し、鹿児島本線の八代~川内間は採算が取れないとしてJRから切り離され、第3セクター鉄道の『肥薩おれんじ鉄道』に移管されたんだ」

茜「その、移管された云々が交流電化がアダになった原因とどう繋がってくるのかな?茜ちゃんにも分かるように説明して」

局長「765プロライブシアターってさ、収入が無いと運営なんて出来ないよな」

茜「そりゃ当然だよ~!!だから、茜ちゃんは日々グッズ販売などの努力を惜しんでないんだよ!」

局長「それはさておき、切り離された区間は俗にいう『儲からない区間』であり、利用客数も多くない。当然収入も少ないはずだ。そんな状況下で全区間交流であり、電気で走らせるにはお金が掛かる交流用の電車を買えって言われたら買うか?」

紬「確かに・・・収入が少ないのに、そのような車両を買うというのにはなれませんね」

局長「おまけに維持するのも大変だ。だから、『肥薩おれんじ鉄道』では普通列車は電気運転をしていないんだ。電気運転をしているのは、そこに乗り入れるJR九州の『36ぷらす3』と通過するJR貨物の電気機関車のみになる・・・というわけだな」

茜「交流電化にも、そんな影があるんだね~。いや~局長ちゃん、こういうのに詳しいなら鉄道会社に就職すればよかったのにね」

局長「知識があるのと仕事するんじゃ話は違うからな」

 

九州の国鉄最初のCTC、そしてSLさよなら運転もパチリと。

特に後者、SLのさよなら運転は各地で行われましたね。

国鉄が打ち立てた動力近代化計画のもとで

多くの蒸気機関車は姿を消していきました。

 

写真にある『さよなら 49.4.24』と書かれたパネルを

掲げた蒸気機関車は一体どこの路線のを走ったのかというと

1974年4月24日に日豊本線宮崎電化記念において

運行されたSLさよなら運転のものでした。

南延岡~南宮崎までを走ったという記録があります。

 

続いては山陽新幹線全線開通の時の『新幹線博多駅出発式』

そしてセレモニー列車『JR九州旅立ち号』をパチリと。

どちらも博多駅であり、歴史的瞬間というシーンですね。

ちなみに、山陽新幹線は1975年に全線開通しており

2025年に50周年という節目の年を迎えます。

 

ジュリア「博多に新幹線が来て、2025年で50年も経つのか・・・。まぁ、東京へ行くのに新幹線だと結構時間掛かるからなぁ」

局長「これでも速くなったんだぞ。東京~博多間は最速で5時間ちょっとにまで短縮しているんだ。1975年に開業した当時の東京~博多間は最短でも6時間56分掛かっていたからな」

紬「な、7時間はかかったんですね・・・」

局長「2024年現在、東京発博多行の最終のぞみは、18時51分発の『のぞみ59号』で博多には23時51分に到着するぞ」

美也「ちょうど5時間ピッタリに到着するんですな~」

局長「1975年の東京発博多行の最終ひかりは、17時ちょうどの『ひかり15号』で、博多には23時56分に到着するぞ。この当時は品川駅も開業しておらず、新横浜駅と新神戸駅は通過していたんだが、今よりも1時間50分早く出なくちゃいかんのに、着くのは今より5分遅いからなぁ」

ジュリア「開業から50年経つけど、時間を見るとこれだけ速くなったんだな・・・」

局長「そして、日帰りでの東京での滞在時間もぐっと伸びているぞ」

茜「滞在時間ってどれくらい伸びたの?」

局長「福岡市に住む人が東京に行くと仮定しよう」

 

★日帰りにおける滞在時間★

 

・1975年山陽新幹線博多開業時

 

6時19分・ひかり20号東京行き乗車

         ↓

13時20分・東京着

         ↓

17時00分・ひかり15号博多行き乗車

         ↓

23時56分・博多着

 

駅下車から再び乗車するまでの自由時間は3時間40分。

 

・2024年現在の山陽新幹線

 

6時00分・のぞみ2号東京行き乗車

         ↓

10時57分・東京着

         ↓

18時51分・のぞみ59号博多行き乗車

         ↓

23時51分・博多着

 

駅下車から再び乗車するまでの自由時間は7時間56分。

 

茜「昔より4時間以上も滞在時間が伸びたじゃん!これなら、茜ちゃん達の劇場に行ったり、近くでご飯食べたりも出来ちゃうね!!」

美也「そうですね~。7時間もあれば、東京タワーもスカイツリーも、色んな所に行けちゃいますね~」

局長「駅でお土産を選ぶ時間とか移動時間は考慮してないからな。それを差し引くと、1975年のだと3時間くらいしか東京にいれないって事になるな」

ジュリア「今でもそんなにいられねーじゃねーか」

紬「そうですよね。東京は、新幹線が出来た今でも泊まりで行くというのが染みついてるというか・・・」

局長「旅行だと泊りで行った方がゆとりがあって良いよなぁ」

 

これは逆でも言える事だったりします。

しかし、2024年だと7時間くらいは滞在できるので

東京の人も福岡の人も旅を楽しんでってねって思いますね。

 

そして時代は平成へ、787系つばめや800系つばめ、

ななつ星In九州といった車両が登場しています。

JR九州になってからは、個性あふれる車両が登場していて

その中には『ななつ星』といった豪華寝台列車も出てきましたね。

 

局長「そんな中で、この年表において局長的にトピックなのがもう1つある」

ジュリア「もう1つ?それってなんだよ?」

局長「国鉄が分割民営化してから16年後、長らく鉄道が無い県と呼ばれていたあの県に・・・鉄道が開通したんだよ!」

美也「鉄道が無い県に、鉄道が出来たとは何なのでしょうか~?」

局長「それがこちらだ」

 

2003年、長年鉄路が無かった沖縄県にて55年ぶりの

鉄道復活となった『沖縄都市モノレール』をパチリと1枚。

沖縄都市モノレールは2003年8月10日に

那覇空港~首里間の12.9kmが開業しており

2019年10月1日には首里~てだこ浦西間が延伸開業し

現在では約17kmの路線として営業しています。

 

美也「そういえば沖縄は昔、鉄道が無かったんですよね~」

局長「いや、沖縄県は大正時代において軽便鉄道や路面電車などがあったんだ。しかし、昭和に入ると路面電車と馬車鉄道がバスとの競争に敗れて廃止の道をたどり、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も1945年3月末で運行停止となり、鉄道施設は空襲や地上戦で破壊されているんだ」

美也「なるほど~。沖縄は昔から鉄道が無い訳じゃなくて、元々はあったんですね~」

ジュリア「でも、バスとの競争に負けて廃線になったのはまだわかるけどよ、戦争で破壊されたりしたのは復旧出来たりしたんじゃないのか?」

局長「戦後、沖縄はアメリカの統治下におかれたってのは学校の授業でも習うだろ?アメリカの統治下におかれた沖縄では、道路整備が優先となり、残された線路も鉄不足によって回収されて生活用品になったんだ。その結果、沖縄から鉄道が完全に消えてしまったんだ」

ジュリア「そんな事があったから、沖縄から鉄道が無くなったのか・・・」

局長「それからして、1972年に沖縄が日本へ復帰した際に都市計画で新交通システムの整備が挙がり、そしてモノレールを建設して行こうって話になったわけだ」

美也「それで、沖縄にモノレールが出来たんですね~」

局長「そういう事になる。詳しい話は、沖縄に行けたら話そうかな」

 

ちなみに、沖縄都市モノレール線は2003年に開業してますが

沖縄都市モノレール線を運営している会社自体は

1982年に設立されています。準備期間が長いっすなぁ・・・。

 

というわけで、ここまで。ではでは