とりあえず、こんばんわ。局長です。
昨日、仕事終わりに初めて家系ラーメンを食べに行きましたが、
これは夜中に食べると五臓六腑に染みわたりますね。
しっかし、家系ラーメンなんて人生初なんよ・・・。
というわけで、前回の続きでも。
歴史ある門司港駅を色々と見て回っていく局長。
連絡船乗り場の通路や密航者がいないか監視する覗き穴を見て、
連絡船時代の頃は色々あったんやなあ・・・と思ったり。
他にも『帰り水』や『旧洗面所』などを見て行った局長は
かつて小荷物取り扱い室であった待合室へ立ち寄り、
そこで門司港駅の歴史を知れる展示を見て行く事に・・・。
門司港駅の歴史、という展示パネルをパチリと1枚。
ここでは明治時代に完成した初代門司駅から
現在の門司港駅に至るまでの歴史が紹介されています。
九州の鉄道における0哩地点であり九州の玄関口でもある、
そんな門司港駅の歴史をちょいと見て行くことに・・・。
まずは明治時代、門司駅が出来た頃のをパチリと1枚。
この時の門司駅は、現在地より約200mほど東側の位置にあり、
そこには現在、北九州銀行門司支店があったりします。
初代門司駅の外装は結構シンプルですね。
杏奈「一番最初の・・・門司駅は・・・今と違って・・・シンプルだね・・・」
局長「この時代の地方都市の駅は、こんな感じなのが多いみたいだな。それはさておき、説明にもあるように初代門司駅は門司港の発展に伴って手狭になって移転しているんだ」
美也「なるほど~。現在地へと移転した理由は、港が発展したからだったんですね~。街が発展する事は良い事ですよね~」
局長「そういうこっちゃ。ちなみに、初代門司駅だった時にはちょっとした事件が起きているんだ」
美也「ちょっとした事件?」
局長「それが、1911年11月10日に発生した『お召列車脱線』だな」
育「お召列車脱線?お召列車って何だったっけ・・・?」
百合子「天皇陛下が乗る電車の事だよ」
育「そうなんだ~!」
美也「でも、その列車が脱線したとは恐ろしいですね~」
百合子「きっと、天皇陛下の命を狙う秘密結社が仕込んだ事件なんですよね!?」
局長「んなわけあるか。七尾百合子、よりによって死刑!」
百合子「なんで死刑なんですかぁ!?」
杏奈「それで・・・どんな事件だったの・・・?」
局長「それはだなん」
ここで、初代門司駅時代に起きた『お召列車脱線』について
ちょっとした豆な話を1つ・・・。
お召列車脱線は1911年11月10日に門司駅にて
天皇陛下を乗せる予定だったお召列車が入れ替え作業中に
脱線してしまい、12時半出発の予定が13時すぎとなり
明治天皇を待たせてしまった・・・というものです。
局長「明治天皇は久留米付近で行われる日本軍の大演習を親臨する目的で久留米へ向かう道中だった。この時、門司は雨が降っていて大事な御料車が濡れてしまうのはアカンというわけで、御料車にカバーを付けて側線から本線へ移動作業をしていたんだ」
百合子「御料車を雨でぬれないようにカバーで覆うって、配慮がすごいですよね・・・」
局長「今考えるとオーバーな気もするけどな。それはさておき、そのカバーを固定していた紐が垂れてしまい、その紐が風によって転轍てこに引っかかってしまい、それによって御料車が脱線してしまったんだ」
杏奈「じゃあ・・・紐がポイントに引っかかって・・・切り替わったタイミングで・・・そこを通過したから・・・脱線したの・・・?」
局長「そんな感じじゃねーかな。そんなわけで、12時半に門司駅を出発して車内で昼食を摂るはずだった明治天皇は、復旧中の間は休憩室で昼食を摂る事となり、発車も13時と遅れてしまう事となる」
美也「脱線したのは残念ですけど、天皇陛下が何ともなかったのは良かったですね~」
局長「しかし、天皇陛下を乗せる御料車を脱線させ、さらには天皇陛下を待たせたというのはあまりにも大変な話でな、当時の門司駅の操車主任が馬関駅付近(現・下関駅付近)に行って轢死したんだ。無論、責任を取って自殺したわけだな」
育「そんな・・・脱線事故が起きたからって、天皇陛下は無事だったんだし、そこまでする事ないよね・・・」
局長「ちなみに、この1件は宮中にも伝わっていて、宮中は遺族に対して300円の下賜があったとの事だ」
育「遺族に対して300円って安すぎるよ!」
百合子「育ちゃん、この時の300円はそんなに安くないと思うよ」
育「そうなの?」
局長「1911年の300円は、今の価値に直すと約99万円ちょっとだな」
杏奈「それでも・・・安い気がする・・・」
局長「昔の物価は今と違うからな。それはさておき、お召列車を運行するにあたってこんな事故が初代門司駅で起きていたのは、学校の授業じゃ教えてくれねーからね。ほな、次ICOCA」
時代は大正へ、鬼滅の刃の世界は大正時代でしたよね?
それはさておき、1914年に初代門司駅があった場所から
現在地へと移転して開業しました。
そんでもって、現在に至るまでこの場所で営業しています。
しかし、100年以上前からすごくハイカラですよね。
こんなの、門司駅と東京駅ぐらいじゃないかなーって。
百合子「初代と比べると洋風建築が良い感じに出ていて、大正ロマンがある駅舎に変わってますね!」
杏奈「変貌ぶりが・・・すごい・・・」
局長「この場所で、後に100年以上も営業を続けているだなんて、この当時の人に言うても分からんやろなぁ・・・」
そして、時は大正時代から昭和時代へ・・・
変更点としては画像真ん中の写真を見れば分かると思いますが
駅の出入口付近に正面上屋が設置されている事ですね。
これに関しては、前回の記事で紹介しています。
局長「ちなみに、正面上屋が付いたのは1929年の話となる」
美也「出入口の所に付いていた正面上屋は、昭和に入ってから設置された物なんですね~」
局長「その後、戦後になるとあの正面上屋は他の駅でも活用されているであろう『バス乗り場』として使われていたみたいだな」
育「その時の写真、昭和時代のところの一番右側にあるね!」
局長「せやな。この頃には関門トンネルが開通したりして、関門連絡船の需要も減ってきていた・・・という所だな。しかしまぁ、とにかく賑やかなもんだな」
ちなみに、1942年に門司駅から門司港駅へと名前が変わり、
そんでもって1987年には国鉄分割民営化によって
JRが発足した時にはJR九州の駅となり・・・
そして1988年には重要文化財に指定されました。
そして時代は平成へ、昭和30年頃の写真と比較してほしいのは
バスやタクシーがいた場所が駅前広場へ変貌した事。
駅前のロータリーを移転し、その空いたスペースを広場に転用、
門司港駅交通広場として1993年に完成しました。
広場には1928年以前にはあったであろう噴水が復活し、
以降は駅前広場に石碑などが設置されたりしています。
局長「そして、開業から100年が経過しようとしていた門司港駅は、シロアリ被害や老朽化による腐食で歪みや亀裂が生じている事が判明し、国、福岡県、北九州市、JR九州が協議を行い、2012年9月から復元工事が始まったわけだな」
杏奈「古い駅舎だから・・・ボロボロだったんだね・・・」
局長「そういう事になる。2012年9月29日に仮駅舎へ移転し、本格的な保存修理工事が始まったんだ。当初は2017年末に終わる予定だった。しかし、耐震補強等の実施で工事期間が延び、2018年11月10日に駅舎機能移転、そして2019年3月10日に復元工事が終了してグランドオープンとなったわけだな」
百合子「東京駅も改修工事で昔の姿に復元されましたけど、門司港駅も昔の姿に復元したんですね」
局長「そういうこっちゃ。復元された門司港駅には、1981年に閉店した『みかど食堂』が新しく『みかど食堂 by NARISAWA』として復活したり、1階にはスタバが入ったりと、温故知新が詰まった素晴らしい駅舎に変わったわけだな」
百合子「大正ロマンが残る駅舎として復活した一方で、スタバが入っているって時代を感じますね」
局長「そうだよなぁ・・・大正ロマンあふれる駅にスタバが入っているなんてなぁ・・・」
杏奈「こういう駅舎で・・・スタバ・・・お洒落だね・・・」
局長「ハイカラとか感じちゃうな!」
宮内庁宮内公文書館の提供による門司駅平面図をパチリと。
こういう青いのを見ると、スパイ映画とかにありそうだなーって・・・
それは局長だけですかね、そうですかね(;^ω^)
恐らく、大正時代かそれ以降の門司駅の様子だと思います。
年度とかは特に書かれてはいませんでしたが、
海の近くに門司港駅の駅舎を意味する『本屋』と書かれていたり
桟橋があったりするので恐らく2代目門司駅のものかと。
よく見ると、門司駅から先にも線路が伸びていたりします。
桃子「ホントだ。駅から先にも線が2本ほど伸びてる・・・」
のり子「ねぇ、この線は一体なんの路線なの?」
局長「門司港駅側、南側の線は恐らく倉庫まで続いていた貨物線になるかな。一方、北側にもう1つ伸びている路線があるだろう?あれは鹿児島本線の貨物支線である路線だ。2008年に路線が廃止された後、前に紹介した『門司港レトロ観光線』の一部・・・として使われているみたいだな」
のり子「へぇ~!上の方に書かれている路線は、今も使われているんだね!」
局長「恐らくな。今と昔では違いはあるから断言できんが・・・」
桃子「それを調べるのがお兄ちゃんでしょ!?」
局長「面目ねぇ・・・」
のり子「あはははっ、局長が桃子にめっちゃ怒られてる~www」
局長「もう、なんとでも言うてくれ・・・」
門司港駅の模型をパチリと、外観や屋根の色とかが
復元された現在の門司港駅とは色々と違ってますね。
ちなみに、右側にあるプレートにはJR九州とあるので
JR発足初年度の門司港駅はこんな感じだったんでしょうね。
のり子「こっちの方が、東京駅にちょっと色合いが似てるよね」
局長「外壁は戦前に黒く塗装されたという話がある。この模型の感じだと、JR発足当初のものだから・・・昭和の頃の門司港駅という形になるな」
桃子「そうなんだ。今の門司港駅と違って、昔は出入口の所にひさしが設置されていたんだね」
局長「前にも話したが、保存修理工事で取り外されている。むしろ、大正時代に2代目として開業した当初の門司駅には庇は存在していなかったしな」
しかし、この模型・・・欲しいなーって思いますね。
模型のサイズ感から、恐らくNゲージの車両が
ピッタリと合うんじゃないかなって思います。
こちらも青い設計図、2代目にして現在も残っている門司港駅の
新築設計図となります。パチリと1枚。
この設計図も宮内庁宮内公文書館が保存していたものです。
こうして見ると、大正ロマンを感じるしエレガントだし・・・
語彙力が減ってきてるから、表現難しいけども
こんな昔からハイカラな駅舎を設計していたなんてなぁ・・・。
茶色い瓶をパチリと、ガスが入ってそうな小さなタンクかなって
そう思う人もいるんじゃないかなーって思いますが、
よく見てみると『カゴメソース』とか書かれています。
そう、これはソースとかが入っていた瓶になります。
瓶というよりかは、容器っぽいですよね・・・。
その瓶の持ち主は、『旧みかど食堂』のものだったりします。
みかど食堂が1951年に門司港駅の1階に移転し、
以降60年間屋根裏に眠っていたものだそうです。
ちなみに、駅の改築の際に見つかったそうです。
美奈子「ところで、みかど食堂ってどんなところだったんですか?」
局長「みかど食堂は、日本で初めて駅構内に食堂を開いた企業として知る人ぞ知る企業だな。今でいうエキナカにレストランを展開した最初の会社だぞ」
美奈子「なるほど~。駅の中にレストランとかあるとお腹空いたときに助かりますもんね!」
局長「そうだよな。局長も助かってるぜ。ちなみに、みかど食堂は1981年に閉店し、2019年に復元してグランドオープンの時には『みかど食堂 by NARISAWA』として復活したんだが・・・」
茜「だが・・・どうしたの?」
局長「茜なら察してくれるかなーって思ったんだよなぁ」
茜「え・・・?あ、まさか・・・」
局長「その復活した『みかど食堂』が、2023年1月30日をもって閉店していたんだ・・・。編集段階で知ったよ!!」
美奈子「ええっ!?もう1年も前に閉店していたんですか!?」
茜「局長ちゃんのブログの更新スピード、今や亀より遅いからねぇ。だから、こんな情報を後々になって知る事もあるんだよね・・・」
局長「そうなんだよな・・・」
2代目門司駅(現・門司港駅)の設計概要をパチリと。
建物の内容や建築費用諸々、詳しく書かれているのですが
当時の文字使いなどで読みにくいのもありますね。
ちなみに、2代目門司駅(現・門司港駅)にかかった費用は・・・
当時の価値で44万5357円16銭とあります。
ちなみに、概要の文にある『十』は『拾』の方を使うため
初見で見ると『?』と思う人もいるはずかと・・・。
美奈子「昔の費用で44万円・・・結構掛かったんですよね」
局長「起工開始が大正2年、すなわち1913年だな。その当時の44万5357円で計算し、今の価値に直すと13億5500万3784円になるぞ」
美奈子「じゅっ、13億・・・」
茜「茜ちゃん達の劇場の建設費より高いかも・・・」
局長「多分、765ライブシアターよりクッソ高いかもな。ルネサンス様式を取り入れたりしていて、とりあえず豪華に仕上げたみたいだからな。そりゃ高くつくわなー」
茜「そ、そうなんだ・・・」
ちなみに、2代目門司駅(現・門司港駅)の建設費が
13億と聞いて『?』と思う方もいると思いますが
これを身近な建物の建設費で挙げると・・・
敷地面積50坪くらいで重量鉄骨造もしくは鉄筋コンクリート造の
30階建てのタワーマンションが建つぐらいだと思ってください。
規模や最近の原材料費高騰に伴う建設費高騰まで考えるとアレなので
敷地面積50坪で30階建てのタワマンとほぼ同じくらいの建設費が
2代目門司駅(現・門司港駅)に掛かってたわけです。
そういうふうに認識しておけばよろしいです。ハイ・・・。
というわけで、ここまで。ではでは