とりあえず、こんばんわ。局長です。

最近、仕事がクッソ忙しくなったのと同時に

局長の対人関係において春が訪れています・・・( ˘ω˘ )

まぁ・・・進展はそっから無いんですけど(笑)

それはさておき、頭文字DACのシーズン4をプレイしましたが

椿ラインがクッソ難しいんで勘弁してくだせぇ・・・。

そんな感じで、更新する体力がありません・・・( ˘ω˘ )

 

というわけで、前回の続きでも。

九州の鉄道の始まりともいえる門司港駅に訪れた局長。

170円で入場券を買って駅構内へ入っていき

ホームに近い位置にある小さな『安全の鐘』を見たり

改札側にある『出発合図の鐘』というのを見て行ったり・・・。

特に出発合図の鐘は多くの人を見送ったりしたんでしょうなと

鐘を見ながらそのストーリーとやらを感じるわけでして。

そんでもって0哩の記念碑やホームに停車していた811系、

さらには撮影当時盛り上がっていた西九州新幹線の

ポスター等を見ていった局長は、駅舎側へと戻っていき

今度は歴史ある展示を見て行く事に・・・。

 

てなわけで、『関門連絡船通路跡』をパチリと1枚。

関門橋や関門トンネルなどが開通するずっと前、

本州と九州を結んでいたのは関門連絡船でありました。

その連絡船の乗り場と駅を繋いでいた通路となります。

 

志保「それって、瀬戸大橋が出来る前に岡山と高松を結んでいた船と同じですね」

局長「その通りだな。1898年に山陽鉄道の傘下企業だった『山陽汽船商社』が徳山港と下関港(当時は馬関港)から門司港を結ぶ鉄道連絡船『門徳航路』というのを開設したのが関門連絡船のルーツなんだ」

可憐「そうなんですね・・・。この当時は、トンネルとか橋も無かったから、船で本州と九州を結んでいたんですね」

局長「せやな。兵庫県の神戸駅から山口県の徳山駅までで運行されていた急行電車と接続させており、また九州側では当時の門司駅まで鉄路が開通していた事で、この連絡船を介して本州と九州を結んだわけだな」

莉緒「なるほどねぇ」

局長「そして1901年5月27日、山陽鉄道が路線を下関駅まで伸ばしたことで下関港~門司港の便が誕生し、同年同日付で徳山港から門司港を結ぶ鉄道連絡船を廃止したんだ。それによって生まれたのが『関門連絡船』というわけだな」

志保・可憐・莉緒「「「へぇ~・・・」」」

 

通路は現在封鎖されており、代わりに関門連絡船が

バリバリ航行していた時代の写真が展示されています。

関門連絡船で本州と九州を繋いでいた時代というのは

今と違ってゆっくりしていたのでしょうか・・・。

 

局長「関門航路は本州側の山陽本線と九州側の鹿児島本線を連絡していたため、本州と九州を結ぶ最重要ルートとして機能した。そのため、運航回数や輸送人員が年々増えて行ったんだ」

莉緒「トンネルも橋もこの時は無かったし、山陽本線も鹿児島本線も規模が大きな路線だったわよね。そりゃ増えるわよねぇ」

局長「開業から10年間は年間84万人、1日あたり約2300人ほどだったんだが、大正末期になると1日あたり1万人を超えるのは当たり前になったんだ」

志保「大正時代には1万人を超えるなんて、すごく重要な航路だったんですね・・・」

局長「昭和初期の不況を除けば、増加を続けていった関門連絡船、関門トンネルの片側が開業する1年前の1941年には、年間で880万人が利用していたんだ。これは1日あたり、24000人が使っていた事になるぞ」

可憐「1日で2万人以上・・・すごい航路だったんですね・・・」

局長「しかし、1942年に関門鉄道トンネルが開通してからは本州と九州が鉄路で繋がった事により、鉄道連絡船としての役割を外される事となる」

志保「鉄路で繋がったら、鉄道の方にシフトしますよね・・・」

局長「しかし・・・!本題に入るその前に、関門連絡船時代の遺構を1つ見て行こう」

 

通路の外側にある壁、その左側に四角形の穴がありますね。

よく見ると、中に入るにつれて穴のサイズが小さくなってます。

これは『旧監視孔』であり、軍の命令で設置されたものとなってます。

どうやら、この穴から乗客の中に密航者がいないか探してた模様です。

 

志保「よく見ると、奥の方の穴は小さくなってますね・・・」

可憐「こんな小さな穴から、密航者とか見つけていたんでしょうか・・・?」

局長「果たしてどうだろうか。でも、説明板にあるように戦時下における不審者や密航者を監視するという点では恰好の場所だろうな」

莉緒「そうよねぇ。この穴が出来た理由は、外国船の寄港地だったというのが理由っぽいよね」

局長「そうだな。今でこそ密入国とかは空港が多いイメージだが、その昔は船でやってくるヤツがいたんだな・・・というものだな」

 

関門連絡船の生涯と書かれた銅色のパネルをパチリと。

1891年に門徳航路として開業したのをルーツとし、

それ以来本州と九州を結ぶ航路として活躍した関門連絡船ですが、

1942年の関門トンネル開業時には鉄道連絡船としての

役割を失う形となってしまいます・・・。

 

局長「さて、関門連絡船の歴史に戻るか。関門連絡船は1942年に関門鉄道トンネルが開業した事で、鉄道連絡船としての役割を失ったわけだが、実はそれでもまだ活躍していたんだ」

志保「それって、鉄道が出来ても船を使う人がいたって事ですか?」

局長「そうなんだ。そもそも、関門トンネルの九州側は関門連絡船が行きつく旧・門司市の中心街へは行かなかったんだ。その結果、下関市と旧門司市の中心街を結ぶ船としての需要がめちゃくちゃあったおかげで、すぐ廃止にはならなかったんだ。郵便輸送を廃止し、便数をそれまでの最大値だった53便から30便ほどに減らして運航を続けたんだ」

志保「それって、トンネルでは街の中心部へ行かないから、互いの街の中心部同士を結ぶ船にたくさんの客が乗ったんですね」

局長「そういうこっちゃ。戦後間もない1947年には年間403万人が利用していたが、それ以降は年間で約250万人前後を推移して行ったんだ」

莉緒「トンネルが出来た後でも関門連絡船を使う人がいるのは分かったけど、それでも段々と減ってきていたのね」

局長「その後、下関駅~門司駅間に普通電車が増発された1953年からは輸送人員が毎年3%ずつ減るという状態だったが、やがてその減少率が一気に加速し始めるんだ」

可憐「減少率が一気に加速・・・どういうことですか?」

局長「1958年、関門国道トンネルが開通したんだ。さらに、民間の『関門汽船』や『関門海峡汽船』の利便性が向上した事で、一気に輸送人員が減ったんだ。その結果、1955年には年間205万人だったのが、1959年には年間110万人にまで一気に減少したんだ」

可憐「トンネルとかが出来たおかげで、利用する人が一気に減ったんですね・・・」

莉緒「でも、関門連絡船の輸送人員が減ってる理由に、民間の関門汽船とか関門海峡汽船という船も理由に挙がるなんて不思議よねぇ」

局長「全く不思議なもんだよな。そんでもって、1961年には関門トンネルを挟む山陽本線と鹿児島本線の区間が電化されたことにより、小郡駅(現・新山口駅)~久留米駅の区間で電車が走り出した。これによって、1961年6月15日には28便にまで減少していた関門連絡船は20便にまで減便、さらに大島航路に属していた『玉川丸』を派遣させたりしている」

莉緒「玉川丸?どんな船なのかしら」

局長「元々、魚雷を運んでいた船を連絡船に改造した船だな」

莉緒「えっ・・・魚雷って、局長くんが前に広島に行った時に見たあの魚雷よね・・・?」

局長「せやな。その魚雷運搬船を改造したのが玉川丸なんだ。輸送人員減にまさか魚雷運搬船を改造した船を使っていたなんてびっくりだよな」

莉緒「びっくりじゃなくて、なんかヤバくない?」

局長「ヤバい噂とかは聞かないがな。そんなこんなで、輸送人員はさらに減少し、そして・・・」

 

昭和39年10月31日、午後10時40分。

門司桟橋発の最終便を最後に、

その63年にわたる栄光の歴史を閉じた。

 

莉緒「半世紀まで続いた関門連絡船も、時代の波には勝てなかったのね・・・」

局長「そういう事だな。ちなみに、さっき『関門汽船』というのをチラっと話したんだが、下関~門司まで船で行きたいのであれば関門汽船が運行している『関門連絡船』というのを使うと良いぞ。所要時間は5分ちょっととの事だ」

莉緒「えっ、関門連絡船って今もやっているの?!」

局長「会社が違うし、乗り場もちょっと違うけどな。それでも、関門連絡船に想いを馳せるなら、関門汽船を使うのも手だぞ」

可憐「電車で行くのも良いですけど・・・船で渡るのも新鮮で良いですよね」

局長「そうだな。ちなみに、下関と門司を結ぶという点において、実は関門連絡船が1901年に発足する12年も前に和船航路として関門間の運航を始めていたんだ」

志保「という事は、下関~門司までの区間を先に運航したのは関門汽船なんですね・・・」

局長「そういうこっちゃ」

 

関門連絡船の歴史と通路跡を見て行った局長、

次の展示も見つけたのでパチリと1枚。

その展示はというと・・・?

 

緑色の柱のパーツがこの場所に展示されていました。

この柱は『旧・正面上家』に設置されていたものです。

門司港駅が修復される前、駅の正面に設置されていたもので

今でいう『ひさし』の役割を果たしていました。

 

可奈「駅の外にひさしがあるって、雨が降った時とかに濡れないから良いですよね!」

局長「そうだよなぁ。自動車や人力車で来た客の乗降場として作られたものだとさ」

麗花「でも、駅の復原の為に撤去されたんですね」

局長「せやね。ちなみに、歴史的価値があるとの事でこんな感じで一部残されたみたいだな」

 

続いては『帰り水』をパチリと、この水道については

1914年に2代目門司駅(現・門司港駅)が

開設された時に設置されたものであるとの事です。

 

麗花「へぇ~。このお水、今も飲めるんでしょうか?」

局長「どうなんだろうな。試してないんだよ。お腹壊すと怖いし」

麗花「え~っ、帰り水、飲まなかったんですか?飲んだら味とか教えてほしかったなぁ」

局長「蛇口ひねった途端に壊れるんじゃないかって心配もしたし・・・」

可奈「あはは・・・でも、なんで帰り水だなんて呼ばれているんですか?」

局長「戦前に海外へ行った旅行者が帰国してきたり、戦後の復員や引き揚げで門司に上陸した人たちが、安堵の想いで喉を潤した・・・というところから来ているみたいだな」

可奈「そうなんですね。それって、故郷に帰ってきて、安心して水を飲むっていう感じですよね」

局長「そういう事になるかな。門司港駅は門司の人たちにとって、第2の我が家みたいな存在なのかもな」

 

続いては『旧洗面所』に関する紹介がありました。

今どきの洗面所とは違ったノスタルジックな部分を

感じることが出来る・・・みたいですが

老朽化で一部を残すのみとなっている模様です。

では、どんな感じなのかというと・・・

 

今の洗面所と比べると、古臭さを感じるなーって思いますが

当時はこれが最先端、お洒落だったんですよね・・・。

あと、こんな感じの大きな洗面所と言えば

デカい鏡が1枚入っているというのが特徴なんですが

この当時は長方形の鏡が5枚設置されてたんですね・・・。

 

続いては駅の待合室、シンプルな感じなんですが

今の駅にあるようなのとはちょっと違いますね。

中へちょいと入って見ましょうか・・・。

 

中には木製のベンチが8つほど設置されており、

改札側には木製のドアが設置されています。

今の駅の待合室は、無機質で当たり障りない感じですが

門司港駅の待合室は温故知新さが感じられますね。

 

というのはさておき、現在は待合室として使われている

この場所はかつて『小荷物取扱室』という場所でした。

 

可奈「小荷物取り扱い室?どんな場所だったんですか?」

局長「その当時の駅において設置されていたらしくてな、旅客の手荷物や託送荷物の受け渡しや保管を行っていた場所だな。今でいうと、コインロッカーとは別に手荷物預かり所があるじゃん。あれと同じっぽくないかな」

可奈「お客さんの荷物を預かったりする場所だったんですね!」

麗花「それが今では待合室として使われているなんて、知らないとびっくりしちゃいますね!」

局長「そうなんだよな」

麗花「待合室にしては広いから、昔はここにたくさんの荷物とかがあったんでしょうね」

局長「そういう事になるよなぁ。いやはや、歴史とやらを感じさせてくれるな」

麗花「ふふっ、門司港駅ってまるで生きる歴史博物館みたいですね」

局長「せやな」

 

というわけで、ここまで。ではでは