とりあえず、こんばんわ。局長です。

ミリアニ第4話を今更ながら観たのですが、原っぱライブって

未来ちゃのノリじゃなくて本気でやろうとしてたという・・・

その理由は、ステージ裏でのある話にすべて込められてますが

局長的に『皆が一度集まれる最高の機会』を作ろうとしたのかと。

ちなみに、原っぱライブに関しては子役経験がある桃子以外は

割と全員肯定的だったのを見ると、桃子とそれ以外のメンツは

芸能界に関する認識とかに若干差があるみたいだなーって。

それはさておき、翼がいい仕事してますねぇと・・・。

 

というわけで、前回の続きでも。

原爆に関する絵や巻き込まれた外国人の話などを見て行った局長。

捕虜となった米軍も原爆に巻き込まれて亡くなった・・・

というのは、原爆資料館にて初めて知りましたね。

他にも、あの時広島に来ていたり在住していた外国人が、

原爆に巻き込まれて大変な目に遭ったというのがね、

命に違いなどあるのだろうかと、某歌詞を思い出しましたね。

てなわけで局長、次の展示を見て行く事に・・・。

 

続いての展示は『生きる』、修羅の中を生き延びたとしても

その人々に待っていたのは安楽とかそんなものではありませんでした。

多くの困難と苦悩に直面し、さらには家族や友人を失った悲しみや

心身に残る傷や病を抱えながら生きていかなければなりませんでした。

 

原爆投下から生き延びたけども、その先に待っているのは

悲しみや苦しみというのはこれまた辛い話。

決して、原爆から生き延びてラッキーという話でもないんですね。

 

恵美「そうかなぁ。あれだけ人が死んだりしたんだよ?アタシだったらラッキーって思っちゃうよ」

局長「例えばの話、東京に原爆が投下されたとして、恵美と琴葉とエレナが巻き込まれたとする。その渦中で琴葉とエレナが死んで、恵美だけ生き残ったら?」

恵美「それは・・・悲しくなっちゃうよ。っていうか、立ち直れないかも」

局長「まさにそれが、今回見て行く『生きる』という部分で取り扱う所なんだ」

琴葉「そうなんですね」

恵美「琴葉!」

エレナ「メグミ~!ワタシたちは何があってもぜーったい一緒だからネ!」

局長「そいじゃ、局長も」

琴葉「もし、東京に原爆が落ちてきて私たちが巻き込まれそうになったら、局長を盾にして守ろうと思います」

局長「そりゃ酷い話だ・・・」

エレナ「でも、キョクチョーはワタシたちの味方なんだよネ・・・?」

局長「うっ、とりあえず、今回の展示を見て行くぞ!ヒア・ウィー・GO!!」

 

『家族を失って』のコーナーをパチリと1枚。

広島や長崎に投下された1発の原子爆弾は帰れる家だけでなく

迎え入れてくれる家族の命も奪って行きました。

ここには、その家族の家にあった品々が展示されています。

 

壁掛け時計をパチリと、時計の針は原爆が投下された時間の

午前8時15分を指したまま止まっています。

また、左側には家族で撮った写真も展示されています。

この時計を寄贈した方は、疎開して広島市にいなかったので

難を逃れましたが、広島市に残っていた父親・母親・兄・姉は

原爆投下の被害に遭って亡くなっています。

 

展示されているこの時計は、爆心地から200m程しか離れていない

自宅兼理髪店の跡から遺骨と共に見つかったものであります。

 

琴葉「自らは疎開していて無事だったけど、家族を4人失うって悲しいですよね・・・」

局長「寄贈された方は当時11歳、原爆投下の前日となる8月5日に両親と姉が疎開先に訪れているが、そこで会ったのが最後だと言われている」

恵美「原爆で死んじゃったとはいえ、前日にお父さんやお母さんに会えたというのは良かった気がするよね。会えずに死んじゃう子もいたんだし・・・」

局長「そうだなぁ。前日に会えた、というだけでも救いかもしれねーけど・・・」

エレナ「でも、死んじゃうのはやっぱり悲しいヨ~!!」

恵美「そうだよね・・・」

局長「父や母が原爆で亡くなる、というのは11歳の少年にしてはあまりにも辛かったかもな」

琴葉「11歳と言えば、桃子ちゃんと同い年ですよね」

局長「そうだなぁ。桃子はこの気持ち、理解できるかもしれねーな」

 

上手くパチリと出来なかったのですが、眼鏡をパチリと。

この眼鏡は寄贈者の母親が付けていたものでしたが

その母親は1945年8月6日に被爆して亡くなっています。

ちなみに、寄贈者の女性の親族についてなのですが母親含め

比較的傷が浅かった妹や大けがをした兄など70日間に

13人を失ってしまいました。

 

この眼鏡を寄贈した女性は、病に苦しみながらも子供を育て上げ

40年以上にわたって平和記念公園にある供養の塔の掃除をしたり

修学旅行生たちに被爆体験を話したりしていました。

 

父母を亡くした子供たちのコーナーをパチリと。

家の下敷きになって炎に包まれた母、

突然体調を崩して苦しみながら息を引き取った父、

疎開先で聞いた家族の死・・・

父母を亡くした子供たちは深い悲しみにくれました。

 

手を合わせている子供たちの写真が大きく見えますが、

この写真は1951年8月6日に撮影されたもので

式典で祈る孤児たち・・・となっています。

 

星梨花「原爆で親を失う、というのはすごく悲しいですよね」

局長「せやな。親を失った子供たちは、苦境に立たされることとなる。その中でも生きていくとなれば、駅で靴磨きをしたり畑で農作業をしたりと・・・今日、明日を生きるために頑張っていたみたいだな」

百合子「そういうのって、小説とかでも見たことありますよ。こういうの見てると、とても辛いなぁって思います」

局長「そうだよな・・・」

 

孤児と共に、という原爆孤児の記録をパチリと。

被爆時に比治山国民学校の教員をしていた斗桝良江が泊まり込みで

国民学校内に設置された迷子収容所の子供の世話にあたり

後に五日市に開設された『広島戦災児育成所』へ

一部の子供たちと共に斗桝良江も移っており、

また、夫で幟町国民学校から出向してきた斗桝正と共に

孤児への教育や孤児と過ごした日々を記録したものとなっています。

 

局長「当時の厚生省(現・厚生労働省)が1948年2月1日でまとめた『全国孤児一斉調査結果』によると、両親がいない孤児は12万3511人、このうち戦災孤児は2万8248人、植民地や占領地から来た『引き揚げ孤児』は1万1351人。それらにおける都道府県の割合は広島県が最も多く、5975人いたとされているんだ」

百合子「原爆投下で多くの家族を失ったりしたから、5000人以上もの孤児が出てきたんですね・・・」

局長「別資料で、原爆で親を失った子供は2000人~6500人とも言われている。頼る親戚がいない孤児たちはタバコの吸い殻を拾ったり、靴磨きをしたりしたわけだな」

百合子「まるで外国のスラムみたいですね・・・」

局長「そう言ったのが日本にもあったわけだな。しかし、その孤児を受け入れる孤児収容所というのが広島市内や市外にも出来た。広島戦災児育成所もそのうちの1つになるぞ」

星梨花「そうなんですね。親を失った子供たちが入れる場所がちゃんと出来て良かったですね!」

局長「ただ、孤児を多く抱えた収容所は食料の確保が最大の悩みになったんだ。そのため、孤児は農作業や地引網、貝掘りなど出来ることはなんでもやったみたいだな」

星梨花「収容所に入っても安心は出来なかったんですね・・・」

局長「まぁ、親代わりに面倒見てくれるという点では孤児のまま街中をふらつくより寂しさとかは無かったのかもな」

 

先ほど紹介した『広島戦災児育成所』をパチリと。

シーソーに乗っている子供たちは皆が笑顔なのですが

その笑顔の裏には原爆で親を失ったという悲しく辛い部分もあります。

それを考えると、なんとも言えなくなりますよね・・・。

 

局長「広島戦災児育成所は1946年1月19日に開所した原爆孤児や戦災孤児を扱う施設だな。開所直前の新聞に掲載された紹介によると、毎朝6時に起床し、8時半から授業、12時昼食、午後は1時半から農作業、2時半に牛乳などの間食、4時半清掃、5時夕食、8時就寝』で『試験農場時代の約一町歩の畑があり、副食物自給は事欠かぬ』とあったんだ」

百合子「朝食の記載は無いみたいですけど、こうして見る限りでは勉強出来たり食事を食べれたり、という点では大丈夫な感じですよね」

局長「しかし、衣服は学童疎開時からの夏服であり、職員が硫黄消毒をしても着替えが無く、シラミの卵が付いていたものを着ていたともあるな」

百合子「それって、とても汚い服を着ていたって事ですよね。おまけに学童疎開時の夏服って・・・1月は冬だから寒いですよね」

局長「そうなんだよな。そんな状況だからこそ、運営はとにかく綱渡りだった。特に食糧危機に陥っていてな、食べ盛りの子供たちを養うためには、広島戦災児育成所を立ち上げ、所長に就任していた山下義信は自らの私財の大半をヤミ米や醤油、味噌の購入に充てたと言われている」

星梨花「自らの財産を子供たちの食事の為に使ったんですね。ところで、この施設を立ち上げた山下義信ってどんな人だったんですか?」

局長「広島県呉市の呉服商生まれ、いわばボンボンかな。百貨店経営に携わった事もある人であったが、太平洋戦争で招集され、終戦時には五島列島の砲兵部隊に所属していたんだ」

星梨花「そうだったんですね。百貨店を経営していて、後に兵隊になった人が、なぜこの施設を立ち上げたんですか?」

局長「原爆が投下された広島の事が心配になり、後に復員すると次男が既に亡くなっていた。また、『原爆孤児が悲惨な状況にある』という声を聴いて『放置できないと心に叫ぶものがあった』として、当時の知事に直談判し、私財を投じて立ち上げたと言われているな」

星梨花「原爆で親を失った子供たちの状況を聞いて、悲惨な状況で放っておけないのが分かったから、立ち上げたって事なんですね」

局長「そう言う事になるぞ」

百合子「原爆孤児に対する悲痛な思いが、彼の心を動かしたって事なんですね!」

局長「せやね。ちなみに、所長の山下義信は衆議院選挙に当選したりして国政にも携わっている。千鳥ヶ淵戦没者墓苑の建設推進派の1人だとも言われているぞ」

 

比治山国民学校に設置された迷子収容所の子供たちの写真と

土生幸子という女の子が書いた作文をパチリと。

下に書かれた作文には、母親を亡くしたという悲しい思いがある一方で

父親やおじいちゃん、おばあちゃんやおばさんがいるし

学校に行けば先生が授業を教えてくれるし友達とも遊べるので

楽しいという『楽しい』と『悲しい』が両方書かれています。

 

何というか、複雑な思いなんでしょうな・・・

楽しいというのも事実だし、悲しいというのもまた事実。

 

原爆の子友の会結成式の写真と田辺俊彦の作文をパチリと。

下の作文、父親と母親を亡くした事について書かれており

おばあちゃんと2人きりで過ごすとなると悲しい・・・

というのが作文に書かれています。気持ちは分からんでもないけど

おばあちゃんと2人きりで過ごすのが悲しいってどうなのかと。

 

杏奈「きっと・・・お父さんや・・・お母さんとも・・・過ごしたかったんだと・・・思う」

瑞希「お父さんやお母さんがいなくなる、というのはとても寂しいし、死んだとなれば悲しいです。だから、その気持ちを書いたのだと思います」

局長「そうなんやろなと思うよ。でもおばあちゃんと2人きりで過ごすのが・・・うーん・・・」

ひなた「きっと、おばあちゃんと過ごすのが悪いとは思ってないべさ。ただ、2人きりとなると寂しいねぇって言いたいんじゃないかい」

局長「・・・なるほどな」

杏奈「それにしても・・・この2人の作文・・・正反対って感じが・・・するね・・・」

ひなた「よく見てみると、そんな感じがするねぇ」

局長「そうだな。前者は母親を失って悲しいけども、父親や祖母などがいて、学校では充実した生活を送れているっていうのが明るい感じで出ているけど、後者は父親も母親も亡くなっていて、暗い感じで出ているからねぇ・・・」

 

孤独となったのは、なにも子供たちだけではありません。

最愛の夫や妻、我が子の死によって幸せな家庭が崩壊しました。

たった1人で毎日を過ごす孤独感、病の苦しみと死への不安が

老人から生きる気力を奪ったのです・・・。

 

画像左手に写っているおじいさんは、広島への原爆投下によって

左目の視力を失っただけでなく、全ての家族も失いました。

それからは毎日を無気力に過ごしながら、人の多い賑やかな場所を求め

広島三大祭りの1つである『とうかさん』に訪れてました。

 

美也「このおじいさん、表情がとても寂しそうな感じですね~」

局長「家族を全員失ったからな。家族と言うのは年配の方にとって命と同じくらい重要な存在だからな」

環「そうなんだね。ところでおやぶん、『とうかさん』ってどんなお祭りなの?」

局長「広島市中区三川町にある『とうかさん』こと『圓隆寺』の祭礼が毎年6月の第1金曜日から3日間行われるんだ。中央通りが歩行者天国となって露店が展開されたり、とうかさんが始まるとその年の浴衣の着初めともなるから、夏の訪れを告げる風物詩的な祭りでもあるんだ」

環「そうなのか~!くふふ、たまき初めて知ったぞ~!」

美也「賑やかな祭りで、寂しさを紛らわしていたんですね・・・。なぜか、ちょっと心が痛くなりますね~」

局長「そうだよな。本当は多分辛かっただろうに・・・」

 

杖を突く老女をパチリと、屋外で食事の支度をしていた

独り暮らしの老女ですが、次第に自由が利かなくなる身体を

松葉づえで支えて生活している・・・とありますね。

この人にも家族がいたのでしょうか・・・。

 

体と心に刻まれた傷、原爆は人々の体と心に深い傷を残しました。

絶え間ないケロイドによる痛みやそれを治すための手術は

激痛すぎる激痛により、身体だけでなく精神が病みました。

そして、放射線による障害は年月を得て次第に現れるようになり

それが被爆した人々を苦しめていきました・・・。

 

展示撮影が結構ブレたので、少し補正を加えてあります。

てなわけで、異形の爪や体内に入ったガラス片などをパチリと。

右下の展示は、右手人差し指の爪が展示されているのですが

被爆当時そこにガラスが突き立ったことで、

その場所から変形した爪が生えたと言われています。

 

杏奈「すごい形の・・・爪だね・・・」

美也「これは、一体どうやったら出来るのですか~?」

局長「出来るというよりかは、爪の根元にガラス片が刺さった事で、以来そこから黒い爪が伸び続けた、とされているんだ」

美也「なるほど~・・・。とても怖いですな~」

局長「しかも、この爪は厚みがあって自分で中々切る事が出来ず、自然に折れるまで待つしか無かったんだ」

星梨花「そうなんですね!自然に折れるとなると、どれくらい掛かったんですか?」

局長「2~3年ほど経って、2cmほど伸びると亀裂が入ってポロッと取れたそうだ」

星梨花「2~3年って結構かかってますね」

局長「しかも、この爪を提供してくれた人は2011年に80歳で亡くなったんだが、その亡くなる半月前までこの黒い爪が生えていたとの事だ」

杏奈「半世紀以上も・・・そんな黒い爪が・・・生え続けるのは・・・怖い・・・」

局長「そうだよな・・・」

 

ケロイドの展示もパチリと、右手の甲に出来たケロイドや

右上腕部~右前腕部に出来たケロイドの切片が展示されています。

ケロイドの実物って見たことないけど、すごい柔らかそう・・・

でも、これが激痛とかで有名なって聞くと寒気がするんですよ。

 

ケロイドに関する証言についてパチリと1枚。

筑摩書房発刊の『原爆1号と言われて』からの抜粋ですが

寒い時期になるとケロイドの所が針を刺す痛みに襲われる・・・

とあり、それは昼も夜も眠れなくなるほどとあります。

 

局長も尿路結石で昼も夜も眠れぬ酷い目に遭った事がありますが、

この方は多分それよりもひどい目にあっているのは間違いないです。

ただ、激痛で心の平静を失ってしまう・・・という点では

局長も気持ちがすっごく分かります。激痛の時はマジヤバいもん。

 

原爆小頭症―親子の歩み―というコーナーをパチリと。

原爆被害は、胎児にも多大な影響を及ぼしました。

そのうえで、『原爆小頭症』を患って生まれた赤ちゃんがいたのです。

 

環「げんばくしょうとーしょう?それってどんな病気なの?」

局長「原爆小頭症とは、病気と言うより障害だな。妊娠初期の母親の胎内で近距離被爆をした影響で頭が小さく、脳や体に複合的な障害を負って生まれることがあるんだ」

環「そうなんだ。こんなのがあるってのは初めて知ったぞ・・・」

局長「ちなみに、原爆小頭症は原爆を知らないというよりかは戦争を体験した事のない人たちの事でもあるんだ」

瑞希「そうですね。胎内で被爆と言う事は、まだ生まれていないですし・・・」

局長「あと、この原爆小頭症が知られるようになったのは被爆から20年後の1965年、作家やジャーナリストで作る『広島研究の会』が『この世界の片隅で』という本を出版したんだ」

ひなた「この世界の片隅で?『に』の間違いでないかい?」

局長「いや、これで合ってる。この世界の片隅で、という本が世に出たことで同年に患者や家族で作る『きのこ会』が発足しているんだ」

 

親子はきのこ会へと出席、そもそも原爆小頭症で生まれた男性は

知的障害の影響もあって学校の授業でついていけず、

男性の父親は小学校や中学校に現在の特殊学級を設立する事に

尽力したとも言われています。

 

局長「広島研究の会により明らかとなった『原爆小頭症』、そして『きのこ会』が国に訴えたこともあり、1967年に国は『小頭症は原爆によるもの』と認めたんだ」

ひなた「国をも動かしたんだねぇ。でも、国が原爆小頭症と認める前は、この人たちはどんな風に診察されてたりしていたんだべさ?」

局長「患者の家族は小頭症で生まれた原因について、『原爆のせいでなく、妊娠中の栄養失調』だと伝えられていたんだ」

瑞希「妊娠中の栄養失調だと思われていたのですね。当時の医療では難しかったのでしょうか」

局長「それがな、この発言をしたのは当時のABCCという機関だったんだ」

瑞希・ひなた・環「「「ABCC??」」」

局長「ABCCを略さず言うと『Atomic Bomb Casualty Commission』、今でいう『放射線影響研究所』だったんよ」

瑞希「放射線を扱う研究所が、原爆のせいではない・・・というのは、原爆が悪いと分かっていたから、と勘繰ってしまいますね」

局長「まぁ、実際に分からなかったこともあるんだろうな。一概には言えねーよ」

 

母親の手記も書かれており、そこには原爆小頭症となった息子が

これからは自立できないであろう、私がいなくなったら・・・

という不安な一面と、この子たちに温かい理解をと書かれてます。

障害を持つ人たちへの風当たり、昭和は結構ありましたからね。

それからというもの、原爆に関する事などは法整備などが進み

原爆小頭症に関する事も改善されているとは思います。

 

なんというか、某歌には『命に違いなどあるのだろうか』という

歌詞があるのですが、局長はこの展示を見てふと思いましたな。

 

というわけで、ここまで。ではでは