とりあえず、こんばんわ。局長です。

ミリシタの最新イベントを現在走っているところですが、

局長的にらったったはグランツーリスモのOPっぽいなーって。

それにしても、ミリアニは佐竹美奈子がええ感じだよな。

脚線美がすごいそそられるというか・・・。

 

というわけで、前回の続きでも。

広島平和記念公園へとやってきた局長、マルセル・ジュノーや

ノーマン・カズンズの記念碑をパチリとしたりしましたが、

この2名って学校の授業で習わないけど超偉人なんですよね・・・。

そんでもって、原爆資料館こと平和記念資料館の前の噴水を

別アングルからパチリとしたら子供が入っていたので

原爆が広島に落ちたあの日も子供たちは平和に暮らしてたんやろなと、

しみじみ思う事があったり。局長もトシ取ったなぁ(どこが)

そんなわけで、原爆資料館こと平和記念資料館へと向かうのであった。

 

広島、いや世界の平和を知るためには重要な資料館こと

広島平和記念資料館へとやって来た局長。

入口にてパチリと、撮影当時は平和記念式典の日に近く、

夏休み期間中とあって多くの人たちが訪れておりました。

その中には、外国人の姿もちらほらと・・・。

 

局長「てなわけで、広島平和記念資料館へ到着だ」

海美「学校の授業とかで聞いた事はあるんだけど、原爆に関する展示とかがある場所なんだよね・・・」

局長「分かりやすく言うとその通りだな。広島平和記念資料館は、1955年に開館しており、戦後から学術機関のみならず市民たちによって被爆資料の収集が行われていた。それらが収蔵・展示されている博物館であり、館内の展示を通して広島に落とされた原爆の恐ろしさ等を後世に伝える博物館でもあるな」

美也「戦争というのも恐ろしいのに、原爆はもっと恐ろしいですよね~」

海美「でも、あんなのがこの広島に落とされたんだよね・・・」

美也「そうですね~・・・」

局長「てなわけで、詳しい展示とかは中へ入って見て行くとしよう。広島平和記念資料館を巡る旅に、そして原爆の悲惨さを巡る旅に・・・ヒア・ウィー・GO!」

 

てなわけで、入館料を払って広島平和記念資料館へ入った局長。

ちなみに、入館料は大人200円で結構安いですね。

検温などしたうえで、常設展示室と案内が出てる場所へと向かいます。

そこからエスカレーターに乗って2階へ行くわけですね。

 

広島平和記念資料館は、広島国際会議場を含む3つの建物で

構成されていますが、博物館としての機能は局長が今いる

一番右側の『東館』と真ん中の『本館』のみとなります。

一番左側は『広島国際会議場』となっています。

 

てなわけで、まずは東館からスタートとなるわけですが

その東館の最初は『被爆前の広島』となります。

1945年8月6日以前の昔の広島を見ることが出来ます。

原爆投下前の広島はどんな風景だったのでしょうか・・・。

 

てなわけで、被爆前の広島市をパチリと1枚。

画像左手にある屋根がドーム状の建物は『広島県物産陳列館』であり、

1915年に開館したコンベンションセンターでもありました。

 

美也「これが被爆前の広島なんですね~」

海美「ねぇ局長!あのドーム状の建物って、後に原爆ドームって言われる建物っぽくない?」

局長「ぽくないじゃなくて、そうなんだよ。後の原爆ドームとなるあの建物は、1915年に開館した『広島県物産陳列館』であり、1933年に『広島県産業奨励館』と名前を変えているぞ」

海美「広島県産業奨励館?どんな場所だったの?」

局長「基本的に広島県で生産された物産を陳列する場所だったが、美術展や博覧会、各種催し物をやっていてな、中国・四国地方の文化活動における拠点でもあったんだ」

海美「なるほど~。広島県の名産品とかが展示されていて、美術展とかがやっていた場所なんだね!」

局長「そう言う事になる。ちなみに、バウムクーヘンというお菓子は知っているよな?」

美也「もちろんです~。穴の開いた、甘くて美味しいお菓子ですよね~」

局長「そのバウムクーヘンの実演販売が日本で最初に行われたのが、あのドーム状の屋根を持つ、『広島県産業奨励館』でもあったんだ」

美也「そうだったんですか~。初めて知りましたよ~」

局長「そもそも、日本初のバウムクーヘンは戦時下の広島において、捕虜として捕らえられていたドイツ人の菓子職人によって作られ、販売されたのが日本におけるバウムクーヘンの歴史の始まりでもあるんだ」

海美「日本初のバウムクーヘンは広島で作られたのかぁ・・・」

 

さらに右側をパチリと、画像左手の写真は先ほどの

広島県産業奨励館のある場所と続いている写真となっています。

路面電車と一般車が走っている橋は相生橋となっており

この当時から交通量がある賑やかな通りでもありました。

 

局長「ちなみに、あの大きな写真に見える橋こと『相生橋』は近世まで存在していなかったんだ」

莉緒「そうだったの?今じゃ、広島でも有名な橋なんだけど・・・」

局長「安土桃山時代、毛利輝元が広島城を築城すると、その一帯が城下町として繁栄するんだが、この相生橋については防犯上の観点から架橋制限が掛けられていたんだ。だから、明治時代になるまでこの場所に橋が作られることは無かったんだ」

莉緒「へぇ~。じゃあ、いつこの橋は出来たのかしら?」

局長「相生橋が出来たのは1878年、この付近の富豪ら有志によって猿楽町(現・紙屋町)から中島町の北たもとの通称『慈仙寺鼻(本川と元安川分岐の中洲頂点部)』を経由し、鍛治屋町(現・本川町)を結ぶ『くの字型』の橋として作られたのが最初だったんだ」つ地図

このみ「本当にくの字になっているわね。これが相生橋のルーツなのねぇ。でも、あの写真と地図とで見るとずいぶん違うのね」

局長「くの字で作られた初代相生橋は1904年の豪雨災害で落橋してしまい、後に道路専用の橋と鉄道専用の橋が併設される形で作られたり、H型という2つの橋を連絡橋で繋いだものも作られたが、最終的に1940年に作られたT字橋、すなわちあの写真の通りになるというわけだな」

このみ「あの姿になるまでに、何度か橋のカタチが変わったのね」

局長「そう言う事になる」

莉緒「しかし、今の平和記念公園のある場所って昔は住宅とかが並んでいたのねぇ」

局長「さすが気づいたな。これについては、後日書いていこうと思っていたんだけど、現在の広島平和記念公園として整備されている場所は、元々は繁華街とか住宅街だったんだよ」

このみ「そうだったの?!昔からあんな感じじゃなかったのね・・・」

局長「まぁ、これについては後日書いていくよ」

 

ちなみに、広島県産業奨励館と相生橋の景色については

1938年に広島商工会議所から見たものとなっているようです。

 

こちらは1930年の紙屋町交差点、路面電車が行き来しており

賑やかさは今も昔も変わらずと言った所でしょうか。

時代は違えど、そこには今と変わらない日常があったのです。

それにしても、昔の紙屋町交差点付近は道幅が狭いですな。

 

莉緒「これが昔の紙屋町だったのねぇ。街並みは違うけど、今と同じなのは賑やかさなのよね」

局長「そうだよなぁ。そこには生きる時代は違えど、日常が流れていたわけなんだよな」

このみ「そうよね。時代が違うってだけで、この人たちは今の私たちと同じ日常を過ごしていた・・・のよね」

局長「だからこそ、『この世界の片隅に』は大きくヒットしたんだと思うんだよな。戦争の悲惨さをストレートに伝えたんじゃなく、こういった被爆前の写真にあるような日常もあったんだという事を・・・」

 

ちなみに、写真左側に見える大きなビルは広島銀行の前身である

芸備銀行のビルであります。5階建てで当時としては広島市内で

かなり大きなビルだったのではないかと思われます、

 

未来「この写真、すごく賑やかな場所ですね!」

翼「局長、この写真の場所って一体どこなんですか?」

局長「革屋町エリアだな。現在の本通商店街でいう本通3丁目にあたる場所との事だな」

翼「へぇ~。いろんなお店が並んでいて、今でいう原宿とかそういう感じがしますね!」

局長「そうだなぁ」

 

この場所、どこなのか詳細をパチリとするのを忘れたので

編集段階で色々と調べる事になってしまいましたが

それでも『革屋町』と分かったのでひと段落。

革屋町は、現在における本通商店街の本通3丁目にあたる場所で

そのルーツは江戸時代において革屋吉郎右衛門をはじめとして

革染色といった革細工のエリアとして成り立ったのが最初です。

 

静香「革細工の町として成り立ったのが革屋町のルーツだったんですね・・・」

局長「ちなみに、この写真だと見づらいんだけど、安田生命保険株式会社広島支店のビルの後ろに3人の和装美人を描いた看板が設置されていたお店で『別嬪店』という店があるんだ」

翼「べっぴん?それってどんなお店だったんですか?」

局長「その名の通り、美人に欠かせない化粧品や貴金属、和装小物などを取り扱ったお店だったんだ」

翼「美人に欠かせないお店って、今でいうコスメとかそういうお店って感じですよね」

局長「そんな感じだな。ちなみに、映画女優愛用の化粧品も取り扱っていたらしい」

未来「映画女優愛用の化粧品まであるって、すごいお店ですよね~」

静香「でも、私たちが使うにはハードルが高そうなお店よね・・・」

翼「そうかなぁ?今でいうコスメとかそういうお店っぽいよーって局長も言ってたじゃん!」

静香「そうだけど・・・局長、お洒落には疎いし」

翼「あー・・・そうだよね」

局長「お洒落に疎くて悪かったな!」

 

子供たちと教師の集合写真、誰もが笑顔で写ってますね。

この集合写真は『幟町尋常高等小学校』のものであり、

1930年代前半に撮影されたものとなっています。

何というか、この笑顔こそが『この世界の片隅に』っぽさが

一番出てるよなぁって感じてしまうんですよね。

 

未来「この写真に写っている子供たち、みんなすごくいい笑顔をしてるよね」

翼「ホントだよね~。私たちも笑っている時があるけど、それと変わらないよね」

静香「生きている時代が違っただけで、こういう部分は今も昔も変わらないよね」

局長「そうなんだよな・・・。ちなみに、尋常高等小学校の就学義務となる年齢は6歳~14歳までだったらしい」

静香「そうなんですね」

翼「じゃあ、私たちと変わらないくらいの子たち・・・って感じですよね」

局長「うーん・・・見てる感じやと、ちょっと幼い気もするけどな。ちなみに撮影時が1930年代初頭だから、1945年やと既に卒業して社会人になっている頃になるな」

未来・静香・翼「「「へぇ~・・・」」」

局長「そういうわけで被爆前の広島はここまでにするかな。次はいよいよ、1945年8月6日へと向かって行くぞ」

 

というわけで、ここまで。ではでは