「白菜を食べて100歳まで生きる」――そんな冗談を言っていた父は、昨秋97歳で亡くなりました。
家庭菜園で育てた白菜を誇らしげに語る姿は、まるで「生きる力」そのものの象徴でした。

 

そして亡くなる直前まで、その生きる力の源は「描くこと」でした。
病床でもスケッチブックを手に取り、亡くなる一週間前まで落書きのような絵を描き続けていたのです。

 


病院でのスケッチブック

入院中、私は父にスケッチブックを渡しました。
最初はなかなか開こうとしませんでしたが、「リハビリにもなるし、元気が出るんじゃない?」と声をかけると、次第に描くようになっていきました。

 

さらに看護師さんが塗り絵のコピーを用意してくださり、父が色鉛筆で塗った作品を病室の壁に貼ってくださることもありました。

 

退院のとき、塗り絵はきれいに残されていました。
けれども、スケッチブックから切り離された“落書き”は、見事に捨てられてしまっていたのです。私には大きなショックでした。

 

むしろ落書きのほうにこそ、父の“生の心”――無意識や「生きたい」というパッションが表れていたはずだからです。


しかし一般的な感覚では、整った塗り絵のほうが「価値がある」と見なされる。
その象徴のような出来事が、切なく胸に残りました。

 

それでも幸い、スケッチブック本体には数枚の落書きが残されていました。
今となっては、それが大きな救いです。

 

でもこれは看護師さんのせいではありません。
むしろ、自分があらかじめファイルを用意して「落書きもここに入れておいてください」とお願いしていれば救えたのに、それを怠ってしまった――その悔いが残っています。

 


子どもの頃に受けた衝撃

父の根っこには、小学校3〜4年生の頃の体験がありました。
夏休みの課題で、従兄弟のお兄さんから譲り受けた編み上げ靴を、誇らしく片方だけ夢中で描いたのです。

 

しかし休み明け、先生に見せると「なんだ片方だけか?」と冷たく言われました。


「片方しか描いていないから価値がない」という態度に、父は強いショックと憤りを覚え、その記憶は晩年まで消えることはありませんでした。

 


否定しない「みずえ会」

だからこそ父は、子どもの表現を絶対に否定しない教師になりました。
小学校の図工の先生と共に、60年近く続けた「大町みずえ会」は、画塾のように技術を教える場ではなく、子どもの内面や衝動を大切にし、自由に表現できる場でした。

 

それは「美術教育(技術を教える)」ではなく「美術による教育(感性を育てる)」――昔で言う情操教育の実践でした。今でも当時の子どもたちは「みずえ会は楽しかった」「行くのが楽しみだった」と語ります。


父はほぼボランティアで場を守り続け、いつも「子どもから教えられた」と言っていました。
子どもの自由な表現こそが、父自身の創作の源になっていたのです。

 


晩年に訪れた“答え”

80代になったある日。
みずえ会の子どもがスケート靴を片方だけ一生懸命に描き、「これでおしまい」と満足そうに遊びに行きました。

 

その姿を見て父は「ああ、やっぱり自分は間違っていなかった」と確信しました。
「描きたいものを、描きたいだけ描く」――そこにこそ本当の表現の喜びがある。
子どもの頃に否定された経験が、80代になってようやく報われた瞬間でした。

 


パッションとしてのアール・ブリュット

父は「アール・ブリュット」という言葉を知らなかったかもしれません。
けれども子どもと共に楽しみ、自らも版画を作り続けたその姿勢は、まさにアール・ブリュット的でした。

 

評価や賞のためではなく、ただ「描きたい」という衝動から生まれる表現。
もちろん父にも欲はあり、時には団体展や公募展の賞を狙いたいと言うこともありました。

 

それでも父の創作のほとんどの源は、子どもと同じ「描きたい」というパッション。
小柄な体に秘めたその炎を燃やし続けた97年の生涯だったのだと思います。

 

※この記事には私自身の体験や解釈を含みます