現在公開中の「ある閉ざされた雪の山荘で」を観てきました。

 ある山荘にやってきた7人の劇団員。それは最終オーディションの招待状だった・・・。

 原作は東野圭吾さんの同名ベストセラー小説。私は例によって原作小説は未読です。

 最近、綾辻 行人さんの「十角館の殺人」という推理小説を読んだんですよね。私は推理小説には余り詳しくないのですが、この本で「閉ざされた山荘」という古典的な推理小説のテーマがあることを知りました。

 誰も入れない出れない場所で殺人事件が起こる。犯人はそこにいる誰かだ、というやつです。この映画の中で紹介されているアガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」が代表例です。タイトルからもわかるように、この小説は東野さんが「閉ざされた山荘」テーマに挑んだ作品です。

 何しろ推理小説なので、ネタバレなしで内容を語ることはできません。この段階で言えることは、出演された7名の方は今が旬の俳優ばかりなので、それを観るだけで楽しめた、ということぐらいです。

 本ブログの趣旨はなるべく多くの方に作品に触れる機会を提供したい、ということなのでネタバレはしない方針です。ただレビューを見ても、いろいろ見方が錯綜しているようなので、以下ではネタバレ全開で私の見方を書き記していおきたいと思います。まだ映画をご覧になられていない方はご注意ください。


以下はあくまでも私の考察です。


 まず、この映画はすべて「ある閉ざされた雪の山荘」という舞台での出来事です。最初の海のシーンから舞台です。実際の山荘ではありません。我々は舞台という設定を映画という形で見せられているのです。

 これが舞台だという証拠に、時折山荘の外で雪が振ります。これも舞台の演出です。最後に桜の吹雪が舞うのと同じことです。

 また要所要所で俯瞰から眺めた構図が現れます。あれこそが実際の舞台なのでしょう。

 すべて舞台での出来事なので、もちろん殺人はありません。それどころか麻倉雅美さんの事故や下半身不随も含めてすべてフィクションです。

 なぜそう言えるかと言うと、舞台「ある閉ざされた雪の山荘で」の作が久我和幸だからです。もし映画の中にあるように殺人事件が麻倉の演出であり、山荘での事件後、全員が和解して、麻倉が車椅子の役者として劇に出ているのであれば、作は麻倉でなければおかしなことになります。

 作が久我であることから、彼が最終オーディションに来た劇団員ということもフィクションであることがわかります。いきなり来た外部の人間の台本で舞台をやるとは考えられないからです。

 恐らく彼は、劇団の中では東郷に次ぐポジションか、劇中で語られている東郷のゴーストライターなのかもしれません。

 映画の中でこれは三重構造だと語られますが、映画の観客からすると実際は五重構造です。つまり、

1.映画としての「ある閉ざされた雪の山荘で」
2.映画の中で演じられる「ある閉ざされた雪の山荘で」という舞台
3.舞台の中で発生する山荘の殺人事件
4.実は劇だった殺人事件
5.何も知らずに山荘に集められた劇団員という設定

 です。まあ、ややこしいことこの上ありません。しかも場所場面で上記の設定を入れ子にしているのです。

 そう考えると、井戸の場面の不自然さも理解できます。あそこは観客にいかにも殺人事件が行われているように見せる演技を役者がしているわけです。

 ついでにいうと、この映画の制作会社であるハピネットは1月22日から同タイトルで舞台版もやるそうです。なかなかに上手い戦略だと思います。

 東野さんは綾辻さんと同様、「閉ざされた山荘」シチュエーションの新たなトリックとして本作に挑戦されたのでしょう。見方を変えると、綿密に読者をミスリーディングするよう組み立てていると思われます。

 この映画の難点は、そんなややこしい構造にも関わらず、見ている途中で、そういえば全員役者なんだよな、と気づいてしまうところです。いったんそういう目で見ると、どれもわざとらしく見えてしまいます。死体という決定的な証拠がないことも一因です。きっと全部フィクションなんだろうな、と見えてしまうのです。

 私としては、この映画のオリジナルキャストでやる舞台を見てみたかったなあ、というのが正直な感想です。
240116