外出自粛が続く中、今更ですがオンデマンドで「ジョーカー」を見ました。今回はそのレビューを。

 

 私は「心の闇」という言葉が好きではありません。犯罪報道でよく使われる言葉。曰く「容疑者の心の闇が見えない」曰く「容疑者の心の闇は明らかにならなかった」。「心の闇」とは一体なんでしょうか。どことなく「胡散臭さ」を感じるのです。

 

 この映画「ジョーカー」は、アーサー・フレクッスという一人の青年が「ジョーカー」という稀代の犯罪者になるまでの物語です。私たちは、この映画の中にアーサーの「心の闇」を見ることができたのでしょうか。あるいは彼の「心の闇」を理解できるのでしょうか。

 

 この映画は世界中で大ヒットしました。日本でもランキングNo.1を獲得。あの「アベンジャーズ」に迫るヒットだったと聞いています。映画の評価も絶賛の嵐。ホワキン・フェニックスはアカデミー主演男優賞を受賞。一体何が、人々をこの映画に惹きつけるのでしょうか?アーサーの「心の闇」なのでしょうか。

 

 実はこの映画、アーサー以外の登場人物はほとんど背景、モブとしてしか描かれていません。彼の母親も、彼の同僚も、あるいは彼の女友達も、周囲が彼に対してどういう思いだったのかは、詳しく描かれていません。2時間余りの上映時間の間、ほとんどがアーサーの描写に費やされています。彼の言葉や行動や表情が、美しく詩的な映像と音楽で語られるのです。

 

 つまり、この映画は、アーサーの私小説なのです。それも、凄まじく魅力的な人物の私小説です。私たちは、これを見る時、自分の物語として感じざるをえません。

 

 物語の最後が必ずしもハッピーエンドではないにもかかわらず、映画を見た私たちが爽快感を感じるのは、アーサー自身の自らを解放したカタルシスに共感するからです。そこには正義や悪は関係ありません。

 

 この映画の主演を演じたホアキン・フェニックスが主演男優賞を得たのは当然といえるでしょう。

 

 さて冒頭の「心の闇」に対する私なりの回答ですが、私たちが期待する「心の闇」など、どこにもありえないと思います。それは単に私たちが見たい何物かでしかありません。ご都合主義の産物でしかないのです。ただあるのは人の物語でしょう。

 

200414