特別展 没後100年記念 住友春翠 | アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】

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現在、泉屋博古館東京で開催されているのは、

“特別展 没後100年記念 住友春翠”という展覧会です。

 

住友春翠没後100年記念展 ポスター
(注:館内の写真撮影は、特別に許可を得ております)
 
 
本展の主役となるのは、こちらの人物。

 

住友春翠の肖像画

 

 

住友家第15代当主・住友吉左衞門友純(号:春翠)。

公家の徳大寺家に生まれるも、20代後半で住友家に養子入りし、

経営手腕を発揮し、現在の住友グループの礎を築いた異色の経済人です。

また、一流の経営者である同時に、一流の文化人でもあった春翠。

泉屋博古館の核となる住友コレクションの多くは、春翠によって収集されたものです。

今年2026年はそんな春翠の没後100年の節目の年。

それを記念した本展では、春翠の近代美術コレクションにスポットが当てられています。

 

image

 

 

さて、春翠が美術品を購入するようになったのは、30歳の頃。

その頃、実の兄である西園寺公望は、春翠にこんな言葉を送っています。

 

「ほんとに良いものは買えるだけ買うがよい」

 

・・・・・・・。

これほど庶民に刺さらない言葉もない気がしますが、それはさておきまして。

春翠は決して、自分の満足のためだけに美術品を購入したわけではありませんでした。

この当時、公望は春翠に対して、未来ある洋画家たちへの資金援助の打診をしています。

春翠は日本の美術保護の一環として、これを快諾。

こうして援助を受けた洋画家の1人が、のちに近代洋画界のドンとなる黒田清輝でした。

(春翠が購入した黒田の代表的な作品の数々は、残念ながら神戸の大空襲で焼失してしまいました)

さらに、山本芳翠もその1人。

本展ではそのお礼として山本本人から贈られたと考えられる石膏像が展示されていました。

 

石膏像 ライオン

 

 

そんな春翠が支援した芸術家の中で、

もっとも深い関わりがあったのが、鹿子木孟郎。

鹿子木がフランス初留学時にお金が尽きてしまった際に、

つてをたどって春翠に資金の援助を頼み込んだところ、彼は快諾。

以来、長年にわたって親交を深めました。

そんな2人の関係性が伝わってくるのが、こちらの1枚。

 

大根とネズミの合作、住友春翠と鹿子木孟郎

 

 

なんと、春翠と鹿子木の合作です。

二股のセクシー大根を描いたのが、春翠、

ネズミを描いたのが、鹿子木とのことです。

よく見ると、ネズミが齧っているのは大根のスネのあたり。

つまり、パトロンのスネを齧る洋画家というわけです。

おあとがよろしいようで(笑)

 

 

ちなみに。

洋画と言えば、こんな作品も。

 

モネのモンソー公園とサン=シメオン農場の道

 

 

モネの《モンソー公園》《サン=シメオン農場の道》です。
モネの作品としては地味目ですが、

何を隠そう、この2点のモネの絵は、1897年に春翠がパリで購入したもの。

1900年には日本入りしたことが記録として残っています。
つまりは、日本に初めてやってきた記念すべきモネの絵なのです。

この当時、日本ではほぼ海外の作品が観られる機会はありませんでした。

当然ながら、図版もモノクロでした。

春翠は日本の画家たちにこれらのモネを見せてあげていたそうです。

 

なお、春翠は他にも、西洋絵画をいつくか収集しています。

そのうちの1点が、こちらの《林間逍遥》

 

住友春翠と鹿子木孟郎の合作油絵

 

 

描いたのは、あのゴッホが深く影響を受けたことでも知られるモンティセリです。

もしかしたら、こちらも日本招来第一号のモンティセリかもしれません。

 

さてさて、本展の会場では、春翠の経歴や、

作品購入の歴史が時系列に沿って紹介されています。

その中でとりわけ興味深かったのが、40代の春翠の動きです。

 

住友春翠展、左に林間逍遥、右に肖像画

 

 

この頃、なぜか彼は、文展に出品された作品を集中的に購入していたそう。

大正3年には、>鹿子木の取次により、

第1回から第8回までの洋画出品作を手に入れています。

春翠は、どこぞの成金コレクターのように(←?)、

ごっそりまとめて買い求めるタイプでは決してないので、

担当学芸員も長年、この買い方に違和感を覚えていたそうです。

しかし、本展のために調べていく中で、

大阪府に美術館を新設し、寄付する構想があったことが判明したそう。

建物だけでなく、コレクションも必要だろうと、

春翠は文展の洋画出品作品を購入していたようです。

しかし、残念ながら、この構想は立ち消えとなってしまいました。

 

それから10数年後のこと。

大正10年、大阪市が美術館の計画を進めながら、

用地の確保に難航しているとの話を春翠は耳にします。

春翠は大正4年に大阪の茶臼山に本邸を移転し、

大正7年には、七代目小川治兵衛の手になる「慶沢園」も完成させたばかりでしたが。

その慶沢園を含む茶臼山一帯の土地1万坪あまりを、

美術館を建設するのであればと、大阪市に寄贈することを申し出たのです。

 

その申し出を受けた大阪市は、返礼のために1万円という予算を計上しました。

当時の市長は、釜師の大国柏斎に相談を持ち掛けます。

1万円もの大金の釜を作ったことがなかった柏斎は当初、

西洋の王宮にあるような室内噴水を春翠に提案したそう。

(↑いかに当時の1万円が高価だったかがわかりますね)

それに対して、春翠はやんわりと遠慮します。

そんな立派な物を頂戴しても据える邸がございません」と。

逆に、「せっかくならば、花生でも頂きましょうか」と提案しました。

“1万円もする花瓶なんて。。。”と困り果てた相斎は、

悩みに悩んだ末に、純銀製で装飾をたくさんあえて取り付け、

表面を黒く燻すなど手間暇をかけたゴージャスな花瓶を制作。

さらに、ダメ押し(?)で純金の延板を張り付けた台座に彫りつけました。

 

住友春翠寄贈のゴージャスな花瓶

 

 

それでも1万円には届かなかったため、

名高い書道家に頌徳表(=功績を褒めたたえる文)を書かせることに。

これでようやく1万円に達成・・・・・と安堵した瞬間、

花瓶の由来を知った書道家は、そういう事情ならば特別に値引きしたそうです。

それを知った柏斎は「それは殺生だす」と嘆いたとか。

 

ちなみに。

そんな柏斎が苦闘して制作したゴージャスな花瓶を、

大阪市長から受け取った春翠はその晩、子息に対してこう言ったそうな。

自分は決してかかるものを貰おうと思って寄付したのではない」と。

柏斎の心、春翠知らず。

星星

 

 

 

 

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