【公園の遊び道具における人とのコミュニケーション考察】 | 言葉のチカラで『美心整活』。智恵の心を整える毎日名言。

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公園の遊び道具における人とのコミュニケーション考察。






そう言えば、最近どこの公園においても、
シーソーという道具を見なくなった。



はて、どうしたことなのだろう。




昔、わたしはよくシーソーで友達と遊んだ。


別に好きでも嫌いでもなかった。





友達がシーソー乗ったら乗る


それぐらいだった。



いま、思い返せば、シーソーは、
相手とのコミュニケーション能力を開花させる
素晴らしい画期的な道具ではないかと思う。



シーソーは、
左右の重さのバランスが取れていないと
そもそも楽しく遊べない。




そういえば昔、小学生当時、
結構ふくよかな友達がいたのだが

その子ひとりに対して
わたしともうひとりが乗っても

そのふくよかな子とわたしたち2人の重さは同じだったのか

そのふくよかな子の足は宙に浮かないままだった。


その事実が
ふくよかな彼女にとって衝撃だったのか
わんわん泣きわめいて

「もぅ乗らない!遊ばない!」

と言って帰ってしまったことを
いまだによく覚えている。


この経験から
幼かったわたしが学んだことは、
シーソーで遊ぶ時は
遊び相手をくれぐれも注意深く選ぶ必要がある

そして選択を間違えると、相手をどうやら深く傷つけてしまうらしい
ということを学んだ。




それからシーソーには
もう一つ
コミュニケーションを考えさせられる体験がある。


体重の重さがわたしと同等な友達と遊んだ時だ。


友達が自分自身を浮き上がらせるために
足で地面を思いっきり蹴った。


その瞬間、
わたしのお尻は地面に叩きつけられ、
お尻の骨から頭のてっぺんまで
背骨を通して骨の髄までジイイイ~ンと鈍い音が聴こえたくらい
本気で痛い思いをした。

なので思わずわたしは泣いてしまった。

しばらく手のしびれがおさまらないほどだった。

まぁ、足で寸止めできなかったわたしも悪いのだが。





この経験から、

「相手を観察して相手と息を合わせる」ことを学んだのだ。




これらの思い出から、
自分より相手の方がやや重かった場合は無論、
自分が相手を浮き上がらせている力を緩めると
相手の重みで自分が宙に上がり
そして相手のお尻にもわたしが経験したように
多大なる負担をかけてしまう。

元の位置に相手を戻すときは
体重移動を慎重に戻さなければならないことも学んだ。


このようにシーソーは、
相手との息を合わせること
道具との付き合い方
運動神経

それからあらゆる危険性を予測したり避けたりするための配慮、気遣い

そんな力をつけられる

とっても素晴らしい遊び道具なのではないか。





もちろん、

シーソーに限らず、
公園の遊び道具はすべて
こういった社会に出てからも大切になることを
無言で教えてくれるとわたしは思うのだ。







以上、
ふと公園でポカーンとしていた時に気付いたことを
考察的にまとめてみたのでした。