(4)震災体験談 1日目 1月17日(火) その4
いつも少年野球チームが練習したりするぐらいの広さの 岩屋公園 には、なぜか 転々と、いよかん の段ボール箱が置いてありました。
きけば、すぐ南側の43号線を走っていた トラックの運転手さんが、阪神高速道路への陸橋が崩れて、トラックがだめになり、もう荷物が運べないから食べてくれ と、置いていったとのこと。
(↓ のちに見つけた いよかん を積んだトラックの写真 場所もまさにここ)
地震の直後は、みんな 崩れたり ななめになった自宅から 毛布や布団を持ち出して、公園の そこここで 数人ずつかたまっていました。
誰かが持ち出した ラジオから、「平成7年兵庫県南部地震は…」と言っているのが聞こえて、ああ そういう名称になったのかと知りました。
時間は、午前8時ごろになっていました。
あ 仕事が始まる。会社に連絡をしないと… と気が付くと、着の身着のままで、何も持っていません。
親もとにも連絡をしないと 心配しているだろうなと思い、そのあと、人に頼んで、財布やカード住所録免許証などが入っている 通勤カバンを 出してもらいました。
(とりあえず 食べるものが まわりにおいてあるけど、スルメやノリやいよかん パチンコ屋の景品のジュース などだった (;^_^A )
公衆電話まで行こうとしても、崩れた家が両側から道に はみでて、通ることができません。
これが本当に、昨日までと同じ場所かと 我が目を疑う惨状です。
通れる道を 探しながら、遠回りをして 一筋向こうの道路に出ましたが、公衆電話は 不通が多く、通じてもテレホンカードはダメで、コインがかろうじて通用するものでした。それも長蛇の列ができていて、なかなか順番が回ってきません。
(当時は、携帯電話なんて便利なものは まだまだ出始めで、みんな固定電話でした)
仕方ないので、とりあえず、公園の マンションのグループのところに戻ってみると、だれかの冷蔵庫から持ち出してきた おもちを フライパンで焼いていました。 火は、そこらへんにある崩れた家からとってきた 廃材を 薪にして 燃やしていました。
岩屋公園には、ひとつ公衆トイレがあります。
周りの人から、水が出ないので、すでにひどいありさまになっているらしいと わかっていましたが、生理現象は仕方なく、朝10時ごろ、トイレに向かいました。 はたして、山盛りになっていました。(^^ゞ
どうしようもないので、わたしも 山を作る作業にくわわりました。
※わたしたちが住んでいた 文化住宅は、あとで大家さんにきくと、けが人は出たが、亡くなった方はいなかったとのこと。よかったです。

