・出た、出た、出羽が・・・! | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 けふ(今日)は、ジジイとしては、何は然て措き、これを綴らねば

『三嶋通庸公ファン・・・』

の名が廃る・・・(汗)

 

 今宵のNHK-G、7時半からの『ブラタモリ』を観て頂いた方も、中には居て下さると想うが、後半の15分ほどの

『明治以降の山形県編・・・』

で出た、この建物と一緒に採り上げられたのが、ジジイが畏敬して已まない三嶋通庸公・・・!

 

(画像は、山形県HPより拝借)

 

 建物は、けのふ(昨日)載せた『山形師範学校』と同じ、明治11年頃に建てられた

『初代・山形県庁・・・』

だが、今は、歴史記念館の『文翔館』と云う名前で保存されて居る建物で、三嶋は、この時、同時に、治安を与る

『山形警察署・・・』

も同じような鐘楼屋根を持つ洋館造りとして建て、行政庁と自治(=治安)体策と教育制度の整備に力を注ぎ、後の山形県政の礎を整備し、戊辰の役(=奥羽越列藩同盟)も影響して、疲弊して居た山形県民に自信と誇りを与え、同時に、まだヨーロッパから移入されて間も無かった

『サクランボ・・・』

の苗木までもを取り寄せ、これを農民に栽培奨励して、完全な

『山形特産品・・・』

へと育てる礎も創って居るのだ・・・!

 

 判りますかな・・・?!

 

 明治11年と云えば、あの維新の大功労者・西郷隆盛が、

『Nippon最後の内紛、西南の役・・・』

を起こして敗れた翌年ってことですぞ・・・(笑)

 

 然(し)かも、その三嶋公は、西郷に見出されて薩摩から東京府の副知事(=参事)職に就いた経緯を考えれば、大恩ある西郷の謀反に、義理でも加わらなければならないと考えられるのに、それには加わらず、逆に、戊辰の役で、温情を以って咎めを緩めた西郷に、恩義を感じて西郷軍に加わろうとして居る

『旧・鶴岡藩士たち・・・』

を鎮める役に廻り、東北での不満士族の蜂起を抑える役目を果たして、陰ながら、西南の役を九州中部だけまでで抑える役目を果たして居る割には、この仁が、明治期の殖産興業の歴史で多く語られないのを、ジジイは、誠、口惜しく想って居たのだが、その功績が、こんなに堂々と、全国放送で肖像入りで語られたのが、誠、嬉しい限りで・・・(汗)

 

 最後は、

『三嶋公のもう一つの功績・・・』

として、山形県が、今でも、

『全国生産量の7割・・・』

を誇ると云う『サクランボ』まで報じてくれて、ウーン、今夜は、心地快く眠れそうだ・・・(汗)

 

さくらんぼ、佐藤錦 に対する画像結果

(画像は、rakuten.co.jpより拝借)

 

 更に、要らぬ余談を添えれば、この

『山形の誇り・サクランボ・・・』

に関して云えば、これも、ジジイが尊敬する

『前田正名公・・・』(=薩摩出身)

が、大久保利通の命を受けて渡仏して、都合2回の渡仏滞在中に集めた植物の種苗を、東京・三田の種苗場で育てた苗を、三嶋が山形に取り寄せた3本から始まって居ることも、もっと識って欲しいものだが・・・!

 

 この三本の内の一本が育ち、初めて実を着けた時、三嶋は、自分の破天荒を、愚痴一つ零さず支えてくれた妻の『和歌女』にも振る舞い、

『どうだ・・・!』

と云わんばかりの、然も満足そうな顔をしたと、和歌女が後に語り残して居る話は、前にも綴ったか・・・(汗)

 

 って・・・、誠、自己満悦でしかない話にお付き合い頂いて居りましたら、心より感謝申し上げます・・・(謝&拝)