≪ ♬ 金も要らなきゃ女も要らぬー・・・、わたしゃも少し背が欲しいー・・・!≫
の決まり音曲で、昭和中、後期のお笑い芸人界で笑いを獲ったのは、もう今はお茶の間ではお眼に懸れなくなって久しい
『玉川カルテット・・・』(=イヤー・・・、懐かしいなあ・・・!)
のメンバーだった『二葉しげる氏』と云うギター担当の芸人さんで、Wikipedia くんを覗くと、
『身長145cmだった・・・!』
と有るから、確かに、如何な戦前生まれの男子と云えども、確かに切実な願いにして、打って付けのキャッチコピーとして、全国を風靡したのも頷けるし、160cmに若干届かなかったこの禿ジジイも、その切実さが判っただけに、未だ忘れない芸人さんだが、この世に、もう一人、
≪ 金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る・・・≫
と、明治維新の大立者、あの西郷隆盛に云わしめた人物に、
『山岡鐵舟(てっしゅう)・・・』
と云う人物が居たのも、多くの人のご存知の通りで・・・!
(画像は、Wikipedia より拝借)
だから、このド田舎ジジイが、今更、この有名な御仁について、彼是、蘊蓄を垂れることも無いし、その前に、その資格自体が無いのだが、そうは云いながらも、この御仁の大ファンを、二十代後半から、もう40年近く宣って已まないジジイであれば、毎記事愛読させて頂いて居る、東京は赤門(=東大・文京区本郷)近くにお住いの『ARKさん』が、つい先般、この御仁の墓参に、健脚運動(=散歩)ついでに、月一度ほど訪なって、手を合わせて頂いて居られると識り、つい、涎を垂らしてしまい、目下、久しぶりの
『鐵舟翁廻り(=読書)・・・』(『翁』と云うほど老けずに53歳で亡くなられて居るのは惜しいが・・・汗)
と相成り候て・・・(汗)
(画像は、ARKさんの記事より拝借・・・謝)
しかし、ジジイが、この御仁(=本)に出合ったのは、もう四十年近く前だが、今読み返しても、
『つくづく面白い御仁だったんだわなあ・・・!』
と感嘆すること頻りなのだが、上に綴った大西郷の、その時の後ろに続く言葉はと云うと、要約、
≪ そのような人でなければ、天下の偉業は成し遂げられない ・・・!≫
と続くのも、多くの人が識るところだろうが・・・(汗)
多くのNippon 人が、
『江戸城、無血開城は、勝海舟の手柄だ・・・!』
と勘違いしたまま、教え込まれ想い込まされて居るやに見受けられるが、それは大きな間違いで、この山岡の、駿府に駐屯して居た西郷総督への
『無私(=決死)の気働き(=直接見)・・・』
に依って、江戸での
『西郷 VS 勝安房の直談判・・・』
が成って、正式に薩長閥中心の明治新政府が始まることを、歴史の教科書は、もっと詳しく教えて措かないと、何やら、
『明治維新が成った立役者は、西郷と勝海舟だ・・・!』
と云う大きな間違いがこの先も続いて行きそうで、隠れた『鐵舟ファン』としては、甚だ面白く無いのだが・・・(汗&笑)
その明確な証となるのが、維新を成し遂げ、些か東京の新政府が落ち着いた明治5[1873]年には、西郷は、京都から江戸城(=現・皇居)に御遷座させた明治天皇のお守役(=侍従)を、この山岡に無理にも頼み込み(=天皇:20歳)、山岡は、結果、以降10年の約束で、
『明治天皇の教育係り(=侍従)・・・』
と云う大役を務め、青年期の明治天皇に、大きな薫陶を与えたと云われて居るし、明治の世の治世が、
『近代Nippon を築く上での大きな礎・・・』
になって居ることを考えれば、そう云う意味では、山岡鐵舟と云う人は、謂わば、
『二度、Nippon を創った人・・・!』
と云っても佳いと、ジジイなどは、独り悦に浸る訳で・・・(笑)
しかし、この御仁を語る時に、特に面白いのは、その少年期から青年期の言動で、此処を語れば、話が尽きないほどの面白いエピソードを、山ほど残して居られる・・・(笑)
そんな中でも、ジジイが一番印象深く心に残して居るのは、二十歳で、自分が入門して居た槍術(=忍心流)道場の『婿養子』になって『山岡姓』となるのだが、その婿養子に至るエピソードが、恩師(=山聖清山公)の急逝に依って、後継ぎが居なくなった山岡家では、
『門人の中から養子を迎えよう・・・!』
との話になり、当初は、別の門弟に白羽の矢を立てたのだが、婿を貰う羽目になった清山氏の妹の『英子(ふさこ)女』が、
『鐵さんじゃ無きゃ嫌だ・・・!』(=当時は、小野鐵太郎と云った・・・)
と駄々を捏ね、それを聴いた鐵太郎青年は、
『わたくしのような者で好ければ・・・!』
と迷いも無く応じ、貧乏どん底の山岡家の養子に納まると云う件(くだり)だが、何せ、今でも、身長180㎝以上有ればなかなかの長身だが、160年前のNippon 男児で、
『6尺2寸(≒188cm)の偉丈夫男子・・・』
だったそうだから、十七歳の『英子女』が、道場に出入りして、剣術で鍛えた筋骨隆々の上半身を、井戸端などで晒して汗を拭う姿を視る英子女が、密かに壁の陰から眺めて恋心を覚え燃やして居たのも頷ける話で、女性にモテた試しが無いジジイなどは、羨ましいやら微笑ましいやら悔しいやら・・・(笑)
兎に角、そんな訳で、
『弾みで貧乏山岡家の婿養子・・・』
に入り、初児は、残念ながら栄養失調で失うのだが、その後、三人の児を生し授かったは佳いが、冬の最中に、暖を取る薪が買えなくて、ガタガタ震えて居る子供らを視兼ねた鐵舟父さんは、徐(おもむろ)に、我が家の仏間に行くと、先祖を祀って在る仏壇を担いで縁側から庭先に投げ付けて壊し、
『それを焚いて暖を取らせた・・・!』
と云うエピソードだ・・・(笑)
鐵舟翁自体、既にその頃は、
『相当な禅の達人・・・』
の域に達して居たと想われるのだが、そんな禅(=仏道)の達人が、殊も有ろうに、
『仏壇を燃やして暖を取らせる・・・!』
とは、浄土真宗などの偶像崇拝を有難がる坊さんに云わせたら、
『何と、罰当たりなー・・・!』
と、眼を丸くして怒られそうなことを平気で遣って、
『児を想う親心・・・』
を体現して居る辺りは、痛快極まりないエピソードである・・・(笑)
余談になるが、鐵舟翁は、幼少のころから
『実に情(=優しい心根)の人・・・』
でも有ったらしいが、それは、産んでくれた母上の薫陶が大きかったらしい・・・。
子どもの頃から、実に素直な人だったらしく、飛騨・高山の郡代まで務めた父(=小野朝右衛門高福)も、その素直さを褒め、
『その素直さを、生涯大事に養え・・・!』
と訓え諭しながら育て、教育にも剣術にも書道にも、一流の先生に就けて学ばせて居る辺りは、佳い両親に恵まれて育った辺りも、この御仁を育てた大きな要素だと想われるわなあ・・・!
と・・・、また話が逸れそうだから、元に戻すが・・・(汗)
他にも、その貧乏の極みの中で、年末大晦日を迎える前、家の炊事場(=勝手口)に現れる『掛け取り(=集金商人)』を相手に、板の間で茶碗酒を酌みながら、
≪ さけのめば なにか心の 春めきて 借金取りは 鶯の声・・・≫
などと嘯(うそぶ)き、更には、
≪ 払うべき 金はなけれど 払いたき こころばかりに 越ゆるこの暮れ・・・≫
と詠んだと云うから、更に痛快さが増すと云うか嬉しくなると云うか・・・(笑)
剣、禅、書に透徹した大哲人としても有名だが、そこまで行くと、
『人間学の大家・・・!』
で有り得て当然だと、この狂歌など読むと、更に嬉しくなるわなあ・・・(笑)
更に更に嬉しいのは、その大哲人は、その観察眼から
『皮肉の大家・・・』
でも有って、維新後の政府から、勲功を讃えた叙勲が伝えられると、
『そんなの、要らねえ・・・、持って帰れ・・・!』
と一笑に付して断ったとは痛快の極みで、ジジイなどは、もう嬉しくて眠れなく為りそうなのだが・・・(汗)
同じく、若くして、自らの失敗で、借金取りに追い捲られて生きて来たジジイなど、とてもこの境地には至れず、
≪ またけふも 金をつくりに にしひがし 夜中にそっと わが家覗き視(む)・・・ ≫
≪ いっそ死のう 想い兆すも 奥の間に 寝ころぶ児らの 顔視てあした・・・ ≫
なんて日々の連続で、一番働き盛りの年代をこの繰り返しで浪費してしまって今日に到り、結果は、
『女房、子供にも愛想尽かしを喰らっての独り身人生・・・』
だが、此処まで転げ落ちて来て、やっと辿り着けたモノに動じぬ境地だけは、今は、些かなりとも鐵舟翁の境地の足元くらいには、
『近付けて来たかな・・・?!』
などと宣ったら、『全生庵(=台東区谷中)』に眠る鐵舟翁に、
『千年早いわい・・・!』
と怒鳴られるだろうな・・・(笑)
と云う訳で、今になって大ファンの鐵舟翁の境地に少々なりとも気付けても、もう刻(とき)、既に大遅しだわが、
『面白い人生だったわなあ・・・!』
なんて嗤えるだけは、この身が得た財産か・・・(汗&笑)
てな訳で・・・、けふも、またくだらぬ駄文を長々と綴って遊ばせて貰ったが、若し、最後まで読む無駄を費やして居られましたら、けふは、ジジイをその気にさせた『ARKさん』をお恨み頂きたい・・・(謝&拝&笑)
何の断りも無く、共犯にしてしまったARKさん・・・、誠にスミマセン・・・(謝)