ARKのあんなこと、こんなこと

ARKのあんなこと、こんなこと

「我以外みな師なり」を胸に、街に溢れる教えに感謝の備忘録

 

最初で最後の地方勤務は、大阪だった。

 

結婚して4~5年、第一次オイルショックで日本中が、パニック状態の頃である。

 

 

しがない会社勤めゆえ、いつの日か、転勤のあることは覚悟していた。

偶々、ボクもカミさんも大の大阪嫌いで、大阪だけにはなってほしくないと話していただけに、この赴任命令のショックは大きかった。

 

 

ですが、

怪我の功名とはまさにこれ。

大阪の5年間は、嬉しい誤算になって、多くの人に恵まれ、鍛えられることになりました。

 

 

所在不明の方が二人いるが、当時お世話になった方々はすでにこの世にいない。

 

男の平均寿命(≒82歳)を迎えた今、無性に大阪が懐かしく、現地で思い出を辿ることにした。

 

 

いざ予定を立てる段になると、何かしら不都合が生じ、延び延びになってきたが、細かいことを気にしていたらキリがないので、多少の無理を承知で大阪に行く。

 

昨日、チケットもホテルも手配した。

 

 

所縁の地を歩き、ゆかりの人の思い出にふける旅。

 

ホテルは、思い出の多い旧東急イン(現、大阪東急REIホテル)と初めから決めていた。

 

 

東京に戻ってからの大阪は、30年ほど前に仕事で2~3回訪問したのが最後。

 

街は随分と変わってしまっているだろう。

方向音痴の上に、土地勘もすっかり失せ、役に立たなくなっている。

 

 

無事に歩けるかが気掛かりで、昨日、孫娘を呼んでグーグルマップの使い方を教えてもらった。

 

目的地を文字で打つのは面倒なので、音声頼りである。

 

 

ボクのスマホは、行き倒れなどの緊急用で、スマホ裏面には、カミさんと息子の連絡先を記してある。

 

スマホは専ら電話を受けるだけで、こちらから掛けることはほとんどない。

 

 

今度の大阪では、緒方洪庵の「適塾」を訪ねるのも楽しみの一つ。

 

洪庵関連の資料や本を読み直しているが、その一冊に福沢諭吉の「福翁自伝」がある。

 

 

今年(2026)は、その福沢諭吉の没後125年ということで、慶応大で諭吉の最期にスポットを当てた企画展が開催中であることを知り、本日(6/22)訪問してきた。

 

展示には、「適塾」時代のパネルもあって、興味深かった。

 

 

福沢諭吉は、個人の自立や平等、そして、学ぶことの必要をよく説く。

 

「学問ノススメ」の冒頭に書く。

 

・天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

 

 

同書では、こうも言う。

・独立の気力なき者は必ず人に依頼す。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。

 

・賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。

 

・進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。

 

 

今や、世の中に欠かせぬ言葉になっている「自由」、「社会」、「経済」、「演説」、「討論」、「

競争」、「権利」などの言葉の翻訳(=造語)も福沢諭吉。

 

諭吉の功績は多いが、中でも、進んだ西洋の知識を日本に積極的に広め、学ぶことがいかに大事かを訴え、そして、出自を選ばない平等な学びの場をつくったことは特筆されるだろう。

 

 

この偉大な福沢諭吉に、最も影響を与えたのが、緒方洪庵でもある。

 

司馬遼太郎が、小学生の教科書用に書いた随筆「二十一世紀に生きる君たちへ」のなかに「洪庵のたいまつ」と題した一編がある。

 

これが、緒方洪庵に興味をもつきっかけになったし、イメージも形成された。

 

 

「洪庵のたいまつ」は、こんな書き出しで始まる。

(※ 抜き書きで、中略の多いことをご承知ください)

 

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世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。

ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。

緒方洪庵のことである。

かれは、名を求めず、利を求めなかった。

あふれるほどの実力がありながら、しかも、他人のために生き続けた。

洪庵は自分の塾を「適塾」と名付けた。

すばらしい学校だった。

入学試験などない。

江戸時代は身分差別の社会だった。

しかし、この学校では、いっさい平等であった。

 

 

洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。

その第一条の意味は、次のようで、まことにきびしい。

 

医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。

決して有名になろうと思うな。

また、利益を追おうとするな。

ただただ自分をすてよ。

そして人を救うことだけを考えよ。

 

 

洪庵は、自分の恩師たちから引きついだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。

かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。

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司馬遼太郎は、子どもたちにわかりやすいように、洪庵の人物像をこんな風に書く。

 

類書を読んでも、洪庵は同じような人であった。

 

後に名を成した多くの弟子たちと共に切磋琢磨した、その「適塾」に行く。

 

 

野暮用ばかりで、忙しない日が続いているが、やっと、厳しく鍛えられ、教えられることの多かった大阪時代の振り返りと「適塾」の旅の始まりです。

 

 

大阪に着いたら、先ずは、阪神百貨店の地下で「イカ焼き」。

 

短い旅は、そこから始まりそうです。