昔、脚本家、倉本聰さんが「人のもてなし方」に自分の思うところをコラムに書いていた。
倉本さんは、よく講演を頼まれる。
何処に行っても講演後、主催者が慰労と感謝の宴席を用意してくれる。
だが
正直なところ、これが何とも有難迷惑。
もちろんご好意は分かる。
だが、
本音のところはひとりにしてほしい。
で
氏は考える。
日本では人をもてなす際に、相手の気もちよりも、自分らのメンツや体面が先行してしまう風潮があるのではないか。
そして
親友から聞いた、あくまでも相手の立場と気持ちを優先するフランク・シナトラの粋なエピソードを紹介されていた。(少し前の記事にした)
正しいのかどうかわからないが、こう思う。
例えば
好きな女に受け入れてもらえなかったとする。
すると、
オレは、あの女は実際には好きではなかったんだと自分に言い聞かせる。
イソップ寓話にもある。
狐がブドウを見つけた。
しかし、
ブドウの房が高いところにあって手が届かない。
内心では悔しくて悔しくて仕方ない。
だが
その悔しい思いを打ち消すように自分を合理化する。
あのブドウは、ぜったい酸っぱくてうまくない。
人は、自分の欲望が満たされない時、何かと屁理屈を見つけて自己を正当化しようとする性向がある。
これはフロイトの防衛機制の中の「合理化」の概念である。
見方によれば、自己欺瞞で自分を正当化しようとすることであって、単なる、言い逃れ、負け惜しみ、強がり、とも言える。
さて
今頃は病院のベッドで所在ない時間を過ごしていることでしょう。
手術の結果はどうあだったか?
腫瘍は、悪性だったのか?
次はどうなるんだ?
内心は不安だらけで、戦々恐々としている。
が
強がりを言ってごまかそうとする自分がいる。
友だちはまだたくさんいるが、なんでもさらけ出せた中学、高校、大学時代の親友と言えるヤツラは、一人も残っていない。
それを考えれば、オレはこれまでよく生きた。
子どもたちもどうにか一本立ちできている。
家族にこれといった問題も無い。
これと言って思い残すことも無いから、おさらばしても良い頃だろう。
市井の達人は、響く言葉を残す。
こんなのがあったが、実に頷ける。
男は、結婚によって女の「賢」を知る。
一方
女は、結婚によって男の「愚」を知る。
人はどう思うか知らない。
が
オレの場合にはこれは間違いなく言える。
さてさて
今頃は、病院のベッドで手術跡の痛さに泣いているのか?
悪性腫瘍の悲観に沈んでいるか?
それとも、
何がどうあれ、病院生活にウンザリしているか?
予約投稿なので、コメントのお気遣いはご無用に。
※
写真がないので、コロナ前の白川郷、飛騨高山にした。
古く、また、関係ない写真で申し訳ありません。