・Go to wherever ・・・(Ⅱ) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 今朝(=3日)、けのふの顛末を綴った後で、

『Google 翻訳・・・』

のサイトを覗いて、

『English のお勉強・・・』

をしたら、『日本人よ、何処かへ行こう・・・!』は、

『Japanese, let's go somewhere ・・・!』

と翻訳してくれた・・・(汗)

 

 お上が煽った

『Go to キャンペーン・・・』

に毒されて居る自分が、恥ずかしい限りだが・・・(汗)

 

 まあ、そんな話は、兎も角・・・(汗)

 

 熊本市内観光の『二大聖地・・・』と云える場所は、熊本城と、

『水前寺公園・・・』 (=正式には『水前寺成趣(じょうじゅ)園』と云うらしい・・・)

で有ると、熊本県人ならずとも、誰もが認める場所では無かろうか・・・?

 

 

 半世紀前の我が父も、そう疑わなかった一人だったから、熊本城の天守閣から降りて来た独り息子を、次に連れて行ったのは、当然、そこだった・・・(笑)

 

 何せ、日曜日の朝着いて、もう昼過ぎには、帰路に着かなければ、末っ子長男は、明日(=月曜日)には、学校に行かなければならないのだから、当に、

『束の間(=半日だけ)の懇親・・・』

なのである・・・(笑)

 

 熊本城からは、至近の距離だから、15分も掛らずに往ける場所は、付近に県庁や市役所などが建つ街中とは想えない

『風雅な佇まいの日本庭園・・・』

なのだが、当時のジジイに、風雅など判ろうはずも無い・・・(笑)

 

 

 当時の入場料が幾らだったのかは、訊きもしなかったし識る意思も無かったが、多分、母は、ハラハラしながら、三人分の入場料を払ったことだけは、今でも容易に推察は出来る・・・(汗)

 

 けのふ(昨日)の入場料は、

『一人、400円・・・』

だったから、当時は、その半額くらいで有ったのだろうか・・・?

 

 しかし、当時の土建業の女性の日雇い賃金が、

『一日、3,000円かそこらだった・・・?!』 (=学生バイトは、2,000円だった・・・笑)

ことを考えると、母の財布から出た『600円』は、相当重たい金額だったはずだ・・・(汗)

 

 此処、『水前寺公園』は、1,600[慶長5]年の

『関ヶ原の合戦・・・』

で、『朝鮮の役・・・』から発した

(明智)光秀、憎し・・・!』

から、大阪方(=豊臣軍)に反旗を挙げ、東軍(=徳川軍)に組みした、秀吉子飼の武将

『加藤清正・・・』

の智謀に懼(おそ)れを為して居た家康が、自分も、智謀の限りを尽くして、大阪から肥後の領国へと還る清正を、

『船中、毒殺した・・・?!』

とも云われる不審な死を遂げた跡、九州の安定の為に、

『細川家三代・忠利(=初代・忠興の孫)・・・』

に安堵(=1632[寛永9]年)し、以降、明治に至るまで、

『細川家の領国・・・』

となる訳だが、その忠利から、以降三代に渡って作庭が為され、

『東海道・五十三次・・・』 (=中学校の修学旅行の時に、そう聴かされたような・・・?)

を模して作られて居るとも云われる、

『国指定の名園(=名勝・史跡)・・・』

であるらしい・・・(汗)

 

 

 

 細川家の所有で有ったし、今も、ご所有なのだそうだが、その証拠は、こんな処にも・・・(笑)

 

 

 庭園内に建つ

『出水(いずみ)神社・・・』

の本殿風景だが、この正反対に在る池の淵には、斯様な立派な鳥居が・・・!

 

 

 柱の右側の根元に、

『令和二年八月建立・・・』

と在ったが、左側の根元には、斯様な印が・・・(笑)

 

 

 

 且つて、二期に渡って、

『お殿様知事・・・』

と謳われ、この熊本県の知事を務められた後、今度は、

『日本新党・・・』

なる党を旗揚げされて、身の置き場を、

『永田町(=参議院議員)・・・』

に移された後、遂には、当時の、与党自民党の、

『宮澤喜一首相・・・』

を引き摺り降ろして、

『第79代・内閣総理大臣・・・』

にまで成られた、あの

『細川護熙氏・・・』

の御名(みな)が貼られて居た・・・(驚)

 

 入り口で、ジジイから『400円』をせしめた女性に、

『此処は、今でも細川家の所有なのですか・・・?』

などと、要らぬ質問をしたら、然もあっさりとした口調で、

『そうですよ・・・!』

と返され・・・(汗&笑)

 

 ご親切な職員女性の話では、

『もう、今は、護熙公はおいでにならず、息子さんが善くお見えになって居ます・・・!』

とご説明頂いたが、それは、然も有りなん・・・!

 

 現下の護熙公は、神奈川県は『湯河原・・・』に隠棲され、作陶などに興じて居られるとお聴きしたり、メディアでお見掛けしたりして居れば・・・(笑)

 

 此処も、熊本城と変わらず、訪れて居る人はまばらで、土産物店のオバサンが、手持ち無沙汰で、ジジイに、

『お茶を飲んで行かれませんか・・・?!』

と声を掛けてくれたが、寄れば、お茶一杯では済まなくなるのが世の人情と云うもので有ることは、重々承知して居るから、愛想笑いを噛まして、さっさと通り過ぎる・・・(笑)

 

 ジジイが、

『是非、此処にも寄りたい・・・!』

と想い兆したのは、此処を眺めたかったからである・・・(汗)

 

 

 池の南西側に沿う小路だが、50年前、ジジイは、確かに、父と肩を並べて、この小路を辿った記憶が、今も鮮明に描き残って居るのだ・・・(笑)

 

 想うに、それから5年が経つか経たぬかで、あの世へ渡った父を考えると、恐らく、ジジイが、父と並んで歩いたのは、恐らく、

『この日が、最後だったのでは無かったろうか・・・?』

と想うと、何とも懐かしいと云うか、不思議な感懐が湧いて来たりして・・・(汗)

 

 池は、阿蘇山の伏流水が湧き出る清水だから、当時も今も、きれいに澄んで居て、その中を、色とりどりの錦鯉が泳いで居たと憶えるが、二人並べば、それで一杯の路幅の小路を、父と並んで歩いた記憶だけは、間違いの無い記憶として、懐かしく想い描かれた・・・(汗)

 

 

 ジジイにしてみれば、この佇まいさえ確かめられれば、それで用は済んだ訳で、先を急いで、入った門口へと向かったが、途中の、

『焼津か清水の宿の辺り・・・?』(=東海道なら・・・笑)

で、名峰・富士山をバックに、証拠写真を一枚頂戴・・・(笑)

 

 

 立ち入り禁止の柵を乗り越え、不届きな仕儀だが、まあ、そこは、

『50年ぶりの回顧・・・』

なれば、ご寛恕を・・・(汗)

 

 と云う訳で、

『片道、188キロメートル・・・、往復、366キロ・・・、都合、十二時間のバカ遊び・・・!』

の顛末で有りました・・・(汗)

 

 往復距離が合わないのは、朝方が、あまりにも気温が低くて、その寒さに震えて、途中、ホームセンターを探して、防寒用に合羽を買わされた故の

『遠回り・・・』

が原因です・・・(汗)

 

 道中、対向する『Bike 転がし(=Rider)さんたち』が、挙って、

『Rider Suit ・・・』

なるモノに身を包んで居られる意味が、篤(とく)と身に積まされた朝でした・・・(汗&笑)

 

 最後に、この4月の

『阿蘇大橋見物・・・』

の時には、まだまだだった

『球磨川、水害復旧路・・・』

も、もう大分、本道(=219号線)が通れるようになり、その路沿いから、改めて、昨年の大洪水の凄さを認識させられる光景を、一、二枚、撮(もら)って来たので、それを載せて頂き、

『けのふのバカBlog ・・・』

を閉じさせて頂きます・・・(汗)

 

 

 

 若し、最後まで読んで頂いて居る方が居られましたら、相変わらずの仕儀を、どうぞお許しくださいませ・・・(謝&拝)