今朝(=3日)、けのふの顛末を綴った後で、
『Google 翻訳・・・』
のサイトを覗いて、
『English のお勉強・・・』
をしたら、『日本人よ、何処かへ行こう・・・!』は、
『Japanese, let's go somewhere ・・・!』
と翻訳してくれた・・・(汗)
お上が煽った
『Go to キャンペーン・・・』
に毒されて居る自分が、恥ずかしい限りだが・・・(汗)
まあ、そんな話は、兎も角・・・(汗)
熊本市内観光の『二大聖地・・・』と云える場所は、熊本城と、
『水前寺公園・・・』 (=正式には『水前寺成趣(じょうじゅ)園』と云うらしい・・・)
で有ると、熊本県人ならずとも、誰もが認める場所では無かろうか・・・?
半世紀前の我が父も、そう疑わなかった一人だったから、熊本城の天守閣から降りて来た独り息子を、次に連れて行ったのは、当然、そこだった・・・(笑)
何せ、日曜日の朝着いて、もう昼過ぎには、帰路に着かなければ、末っ子長男は、明日(=月曜日)には、学校に行かなければならないのだから、当に、
『束の間(=半日だけ)の懇親・・・』
なのである・・・(笑)
熊本城からは、至近の距離だから、15分も掛らずに往ける場所は、付近に県庁や市役所などが建つ街中とは想えない
『風雅な佇まいの日本庭園・・・』
なのだが、当時のジジイに、風雅など判ろうはずも無い・・・(笑)
当時の入場料が幾らだったのかは、訊きもしなかったし識る意思も無かったが、多分、母は、ハラハラしながら、三人分の入場料を払ったことだけは、今でも容易に推察は出来る・・・(汗)
けのふ(昨日)の入場料は、
『一人、400円・・・』
だったから、当時は、その半額くらいで有ったのだろうか・・・?
しかし、当時の土建業の女性の日雇い賃金が、
『一日、3,000円かそこらだった・・・?!』 (=学生バイトは、2,000円だった・・・笑)
ことを考えると、母の財布から出た『600円』は、相当重たい金額だったはずだ・・・(汗)
此処、『水前寺公園』は、1,600[慶長5]年の
『関ヶ原の合戦・・・』
で、『朝鮮の役・・・』から発した
『(明智)光秀、憎し・・・!』
から、大阪方(=豊臣軍)に反旗を挙げ、東軍(=徳川軍)に組みした、秀吉子飼の武将
『加藤清正・・・』
の智謀に懼(おそ)れを為して居た家康が、自分も、智謀の限りを尽くして、大阪から肥後の領国へと還る清正を、
『船中、毒殺した・・・?!』
とも云われる不審な死を遂げた跡、九州の安定の為に、
『細川家三代・忠利(=初代・忠興の孫)・・・』
に安堵(=1632[寛永9]年)し、以降、明治に至るまで、
『細川家の領国・・・』
となる訳だが、その忠利から、以降三代に渡って作庭が為され、
『東海道・五十三次・・・』 (=中学校の修学旅行の時に、そう聴かされたような・・・?)
を模して作られて居るとも云われる、
『国指定の名園(=名勝・史跡)・・・』
であるらしい・・・(汗)
細川家の所有で有ったし、今も、ご所有なのだそうだが、その証拠は、こんな処にも・・・(笑)
庭園内に建つ
『出水(いずみ)神社・・・』
の本殿風景だが、この正反対に在る池の淵には、斯様な立派な鳥居が・・・!
柱の右側の根元に、
『令和二年八月建立・・・』
と在ったが、左側の根元には、斯様な印が・・・(笑)
且つて、二期に渡って、
『お殿様知事・・・』
と謳われ、この熊本県の知事を務められた後、今度は、
『日本新党・・・』
なる党を旗揚げされて、身の置き場を、
『永田町(=参議院議員)・・・』
に移された後、遂には、当時の、与党自民党の、
『宮澤喜一首相・・・』
を引き摺り降ろして、
『第79代・内閣総理大臣・・・』
にまで成られた、あの
『細川護熙氏・・・』
の御名(みな)が貼られて居た・・・(驚)
入り口で、ジジイから『400円』をせしめた女性に、
『此処は、今でも細川家の所有なのですか・・・?』
などと、要らぬ質問をしたら、然もあっさりとした口調で、
『そうですよ・・・!』
と返され・・・(汗&笑)
ご親切な職員女性の話では、
『もう、今は、護熙公はおいでにならず、息子さんが善くお見えになって居ます・・・!』
とご説明頂いたが、それは、然も有りなん・・・!
現下の護熙公は、神奈川県は『湯河原・・・』に隠棲され、作陶などに興じて居られるとお聴きしたり、メディアでお見掛けしたりして居れば・・・(笑)
此処も、熊本城と変わらず、訪れて居る人はまばらで、土産物店のオバサンが、手持ち無沙汰で、ジジイに、
『お茶を飲んで行かれませんか・・・?!』
と声を掛けてくれたが、寄れば、お茶一杯では済まなくなるのが世の人情と云うもので有ることは、重々承知して居るから、愛想笑いを噛まして、さっさと通り過ぎる・・・(笑)
ジジイが、
『是非、此処にも寄りたい・・・!』
と想い兆したのは、此処を眺めたかったからである・・・(汗)
池の南西側に沿う小路だが、50年前、ジジイは、確かに、父と肩を並べて、この小路を辿った記憶が、今も鮮明に描き残って居るのだ・・・(笑)
想うに、それから5年が経つか経たぬかで、あの世へ渡った父を考えると、恐らく、ジジイが、父と並んで歩いたのは、恐らく、
『この日が、最後だったのでは無かったろうか・・・?』
と想うと、何とも懐かしいと云うか、不思議な感懐が湧いて来たりして・・・(汗)
池は、阿蘇山の伏流水が湧き出る清水だから、当時も今も、きれいに澄んで居て、その中を、色とりどりの錦鯉が泳いで居たと憶えるが、二人並べば、それで一杯の路幅の小路を、父と並んで歩いた記憶だけは、間違いの無い記憶として、懐かしく想い描かれた・・・(汗)
ジジイにしてみれば、この佇まいさえ確かめられれば、それで用は済んだ訳で、先を急いで、入った門口へと向かったが、途中の、
『焼津か清水の宿の辺り・・・?』(=東海道なら・・・笑)
で、名峰・富士山をバックに、証拠写真を一枚頂戴・・・(笑)
立ち入り禁止の柵を乗り越え、不届きな仕儀だが、まあ、そこは、
『50年ぶりの回顧・・・』
なれば、ご寛恕を・・・(汗)
と云う訳で、
『片道、188キロメートル・・・、往復、366キロ・・・、都合、十二時間のバカ遊び・・・!』
の顛末で有りました・・・(汗)
往復距離が合わないのは、朝方が、あまりにも気温が低くて、その寒さに震えて、途中、ホームセンターを探して、防寒用に合羽を買わされた故の
『遠回り・・・』
が原因です・・・(汗)
道中、対向する『Bike 転がし(=Rider)さんたち』が、挙って、
『Rider Suit ・・・』
なるモノに身を包んで居られる意味が、篤(とく)と身に積まされた朝でした・・・(汗&笑)
最後に、この4月の
『阿蘇大橋見物・・・』
の時には、まだまだだった
『球磨川、水害復旧路・・・』
も、もう大分、本道(=219号線)が通れるようになり、その路沿いから、改めて、昨年の大洪水の凄さを認識させられる光景を、一、二枚、撮(もら)って来たので、それを載せて頂き、
『けのふのバカBlog ・・・』
を閉じさせて頂きます・・・(汗)
若し、最後まで読んで頂いて居る方が居られましたら、相変わらずの仕儀を、どうぞお許しくださいませ・・・(謝&拝)