3月26日 金曜日
アゴラ劇場にて、ままごと『スイングバイ』観劇。
はじめに言っておこう。面白かった。少なくとも、僕は面白いと感じた。けれど、面白いと思える能力は、個人の能力なので僕以外の人には、特に価値はない。そもそも他人の感想というのが、その程度のものだ。とはいえ、これから書くことにはネタバレも含む、面白かったからこその疑問点もある、だからこの先を読む方は、少し気をつけて欲しい。
この先は、僕の持ったイメージや疑問だけれど、まとまってはいない、少なくともまだ。ただし、まとめようとしているか、といえばまとめるつもりはない、と思う。
観劇後、すこし考えたけれど、僕が面白いと思ったのは基本的には、アイデアであったりギミックであったり、つまり意匠についてだ。デザイン、特に構造については今までの柴幸男さんの作品としては弱くなったな、と感じる。柱の強度はやや弱まった。というか、今までの作品が構造上強度が強かったということかもしれない。隙がある事が悪いとは思わないけれど、まあ気になるからね。
でも、そのアイデアやギミックが秀逸だし、お客さんを楽しませようという気持ちが、いつもだけど凄く伝わる。タイムカード一つでも、入り方が違うもの。
今までの作品は、少女であったり家族であったり、ミクロな世界、関係性からマクロな世界への飛躍があった。宇宙を感じる作品だったと思う。ここで少し気になったのが、作り方が逆転していないか、ということ。今まで、ミクロからマクロというイメージの飛躍、大ジャンプがあった、それこそスイングバイしていた。今回はマクロからミクロへ視点が逆転している気がする。今回の作品では、会社というコミュニティを世界や人生や、宇宙、社会への見立てではなく。それらの大きなイメージを、より小さな会社に見立ててしまったように感じる。つまり、思考の視点移動が逆転してしまっていて、これが最後まで漂うセンチメンタルな雰囲気をつくるひとつの要因なのかもしれない。
この視点が逆転しているせいで、僕自身は、この作品のタイトルのようにスイングバイすることができなかった。正確に言えば、加速スイングバイではない。等速スイングバイ(こんな言葉あるかな?つまりただのスイングバイ)だった。
このスイングバイと、物語の強度に関しても少し。
ひとつの巨大なビル、会社を人類の営み、その歩み、さらにはもっとミクロに人の体組織、細胞に見立てるのであれば、僕たちが見たい物語というのは、変わりなく同じ日常を繰り返す僕たちが、突然変異、バグと戦うその姿なのではないだろうか。この物語には、そういう意味でのバグが存在しないように感じた、当たり前の人たちが当たり前のように生きて、多少の疑問や欺瞞を抱いて、恋をしてつながって別れる、それでもプログラムされていたかのようにアポトーシス(細胞死の事、僕にはそう見えた)する姿は、ちょっと切なすぎた。
もしくは、今にもほろほろと崩れてしまいそうなゆるやかな連帯の中で、それでも繰り返し繰り返し人と人とが何かを伝え、影響する。そのつながりが、希望そのものであり、それは加速スイングバイではなく、等速スイングバイでしかないのだということを、もっと積極的にアピールしたほうが良かったのではないか、と僕は思っている。
最後にひとつ。どうしても作品の上で、ビルの外にそれぞれの家族やまた別の社会があるらしいという描写は、僕の中で消化しきれない部分として残る。
印象的なのは、最後の柴幸男さん自身の台詞として、
「この超高層ビルは、どこに向うのか、どれだけ伸び続けるのかわからないまま、今もなお伸び続けている。」みたいな(結構適当に再現していますが)台詞が、大体のところを表しているな、と思う。
色々書いたけれど、作品は楽しめる、僕は面白いと思った。個人的には岸田戯曲賞を取った後での作品だし、風のうわさはちょこちょこ入ってきていたけれど、苦労は計り知れない、すごいなと思うばかり。お疲れ様です。
アゴラ劇場にて、ままごと『スイングバイ』観劇。
はじめに言っておこう。面白かった。少なくとも、僕は面白いと感じた。けれど、面白いと思える能力は、個人の能力なので僕以外の人には、特に価値はない。そもそも他人の感想というのが、その程度のものだ。とはいえ、これから書くことにはネタバレも含む、面白かったからこその疑問点もある、だからこの先を読む方は、少し気をつけて欲しい。
この先は、僕の持ったイメージや疑問だけれど、まとまってはいない、少なくともまだ。ただし、まとめようとしているか、といえばまとめるつもりはない、と思う。
観劇後、すこし考えたけれど、僕が面白いと思ったのは基本的には、アイデアであったりギミックであったり、つまり意匠についてだ。デザイン、特に構造については今までの柴幸男さんの作品としては弱くなったな、と感じる。柱の強度はやや弱まった。というか、今までの作品が構造上強度が強かったということかもしれない。隙がある事が悪いとは思わないけれど、まあ気になるからね。
でも、そのアイデアやギミックが秀逸だし、お客さんを楽しませようという気持ちが、いつもだけど凄く伝わる。タイムカード一つでも、入り方が違うもの。
今までの作品は、少女であったり家族であったり、ミクロな世界、関係性からマクロな世界への飛躍があった。宇宙を感じる作品だったと思う。ここで少し気になったのが、作り方が逆転していないか、ということ。今まで、ミクロからマクロというイメージの飛躍、大ジャンプがあった、それこそスイングバイしていた。今回はマクロからミクロへ視点が逆転している気がする。今回の作品では、会社というコミュニティを世界や人生や、宇宙、社会への見立てではなく。それらの大きなイメージを、より小さな会社に見立ててしまったように感じる。つまり、思考の視点移動が逆転してしまっていて、これが最後まで漂うセンチメンタルな雰囲気をつくるひとつの要因なのかもしれない。
この視点が逆転しているせいで、僕自身は、この作品のタイトルのようにスイングバイすることができなかった。正確に言えば、加速スイングバイではない。等速スイングバイ(こんな言葉あるかな?つまりただのスイングバイ)だった。
このスイングバイと、物語の強度に関しても少し。
ひとつの巨大なビル、会社を人類の営み、その歩み、さらにはもっとミクロに人の体組織、細胞に見立てるのであれば、僕たちが見たい物語というのは、変わりなく同じ日常を繰り返す僕たちが、突然変異、バグと戦うその姿なのではないだろうか。この物語には、そういう意味でのバグが存在しないように感じた、当たり前の人たちが当たり前のように生きて、多少の疑問や欺瞞を抱いて、恋をしてつながって別れる、それでもプログラムされていたかのようにアポトーシス(細胞死の事、僕にはそう見えた)する姿は、ちょっと切なすぎた。
もしくは、今にもほろほろと崩れてしまいそうなゆるやかな連帯の中で、それでも繰り返し繰り返し人と人とが何かを伝え、影響する。そのつながりが、希望そのものであり、それは加速スイングバイではなく、等速スイングバイでしかないのだということを、もっと積極的にアピールしたほうが良かったのではないか、と僕は思っている。
最後にひとつ。どうしても作品の上で、ビルの外にそれぞれの家族やまた別の社会があるらしいという描写は、僕の中で消化しきれない部分として残る。
印象的なのは、最後の柴幸男さん自身の台詞として、
「この超高層ビルは、どこに向うのか、どれだけ伸び続けるのかわからないまま、今もなお伸び続けている。」みたいな(結構適当に再現していますが)台詞が、大体のところを表しているな、と思う。
色々書いたけれど、作品は楽しめる、僕は面白いと思った。個人的には岸田戯曲賞を取った後での作品だし、風のうわさはちょこちょこ入ってきていたけれど、苦労は計り知れない、すごいなと思うばかり。お疲れ様です。