12月11日
今更ではあるけれど、このブログでの文章の表記がコロコロと変わっているのをお詫びしたい。始めは、改行を多用していたし、句点も使用していなかった。というのも、文章の見た目に留意していた為なのだけれど、ただ、やはりいくぶん独りよがりな気もしていたので、今では、一般的な文章の書き方に戻っている。ただ、これからも、例えば詩や散文の様な物は句点を使わなかったり改行多く使ったりするだろう。それは、文章の内容よりも、その詩のリズムや間の取り方、雰囲気が捉えやすいだろうと言う、思惑からだ。
どちらが良いと言う物ではないけれど、もう少し、文章の表記として確立させたいなとは思っている。つまり、僕がまだ迷っていると言う事なので、まあ気長に待ってほしい(待つ気があれば、だが)。
そう言う意味で、作家と言うのはすごいなと思う。自分の書き方と言うのを確立していると言う事だ。文章を読めば、もしかしたらこの作家かな、と気付かされる事は多い。ただ、それは自分の確立された書き方、ルールに従った方が、書きやすい、楽だと言う事かもしれない。文章を書く度に全くその人だと思えない、同じ作家が書いたとは思えないという作家はなかなかいない。名前を変えて試みている作家もいるだろう。本当に成功していたら気付けない訳だから、やはりそれもすごい。良い物と言うのは、名前が無くても長く残るだろう、だからこれからはどんどん名前と言う物の価値は薄れていくはずだ。一部では、当たり前の様な認識ではあるけれど、一般的に浸透するのは、まだまだ先の事だろう。本だけの話でもない。名前もブランドも記号だ、と言うのはつまりそういうことだ。便利だけれど、そのものの本質ではない。君は誰?何?と問われて、なんと答えられるだろう。おそらく正解は無いけれど、そこで何かを答えられると言う事が、一つの価値だ。またそれも、記号かもしれないけれど。

今更ではあるけれど、このブログでの文章の表記がコロコロと変わっているのをお詫びしたい。始めは、改行を多用していたし、句点も使用していなかった。というのも、文章の見た目に留意していた為なのだけれど、ただ、やはりいくぶん独りよがりな気もしていたので、今では、一般的な文章の書き方に戻っている。ただ、これからも、例えば詩や散文の様な物は句点を使わなかったり改行多く使ったりするだろう。それは、文章の内容よりも、その詩のリズムや間の取り方、雰囲気が捉えやすいだろうと言う、思惑からだ。
どちらが良いと言う物ではないけれど、もう少し、文章の表記として確立させたいなとは思っている。つまり、僕がまだ迷っていると言う事なので、まあ気長に待ってほしい(待つ気があれば、だが)。
そう言う意味で、作家と言うのはすごいなと思う。自分の書き方と言うのを確立していると言う事だ。文章を読めば、もしかしたらこの作家かな、と気付かされる事は多い。ただ、それは自分の確立された書き方、ルールに従った方が、書きやすい、楽だと言う事かもしれない。文章を書く度に全くその人だと思えない、同じ作家が書いたとは思えないという作家はなかなかいない。名前を変えて試みている作家もいるだろう。本当に成功していたら気付けない訳だから、やはりそれもすごい。良い物と言うのは、名前が無くても長く残るだろう、だからこれからはどんどん名前と言う物の価値は薄れていくはずだ。一部では、当たり前の様な認識ではあるけれど、一般的に浸透するのは、まだまだ先の事だろう。本だけの話でもない。名前もブランドも記号だ、と言うのはつまりそういうことだ。便利だけれど、そのものの本質ではない。君は誰?何?と問われて、なんと答えられるだろう。おそらく正解は無いけれど、そこで何かを答えられると言う事が、一つの価値だ。またそれも、記号かもしれないけれど。
