■ ダリダ/誕生日:1933年1月17日/死亡日(自殺):1987年5月3日/54歳没


◇前書き

ダリダの伝記映画。主演はスヴェヴァ・アルヴィティ(Sveva Alviti)。イタリア人。

本作は2017年初めフランスで公開され、2018年5月に日本公開となった。見に行こうかとも思ったが一度見ただけでは分からないのでパス。DVDを待った。2018年末にDVD発売。最初のころは、ヨーロッパや中東で公開されたが「日本では公開されるのか?」と心配した。その後アメリカなどでも公開された。アジアで早かったのは台湾。言語はフランス語で英語版はないようである。中東で多く公開されたのは、ダリダがカイロ生まれだからだろう。長さは127分。

ダリダの映画としては2005年に公開されたSabrina Ferilli主演のものがある。こちらはフランス語で英語の字幕もない。アマゾンに何の説明もなく出品されていたのでショーの映像かと思い買った。こちらは180分の表示があるが、実際は200分以上もある。私にフランス語が分かるわけもないが4回見ている。本作のスヴェヴァ・アルヴィティはわりとダリダに似ているが、Sabrina Ferilliは似ているとは言い難い。

他に2013年ころにNadia Fares主演でダリダの映画が企画されたようだが、実現しなかった(ようである)。ダリダが死亡したのが1987年なので2005年版の前にもうひとつくらいあってもよいだろうが、なさそう。もし運悪く(笑)私が長生きしていれば、運よくもう一度くらいダリダの映画に出会えるかもしれない。ただ今回は弟でマネージャーを務めたブルーノが協力しているが、次回はおそらく協力を得られないので無理だろうか?

本作の副題の「あまい囁き」は「Palore Palore」という曲のこと。これはダリダが歌って合間にアラン・ドロンがセリフをいうもの。この二人が組めば大ヒットは間違いがない。しかしこの曲はダリダやヴィッキーと並んで私が好きなミーナがオリジナル。ミーナの場合はセリフはアルベルト・ルーポ。

本作のDVDには「スキャンダラスな真実とは?」と書いてある。これは何事か?これはおそらくダリダが言ってみれば奔放であったことを指しているのだろう。すべての人間には、弱いところや問題点がある。それをことさら強調して売り上げを上げるために、このような表現を付けるべきではない。担当者はダリダのファンではないのだろう。

遅くなったが、ダリダをご存じない方も100人に一人くらいはいらっしゃると思う。ダリダはカイロ生まれのイタリア人で、後にフランス人となり、歌手として大成功した。そして1987/5/3に自殺した。

WikiPediaには「度重なる失恋によって自殺」といかにも間近に目撃していたかのように書いてある。本作や2005年版を見る限り、死の前に度重なる失恋という雰囲気はない。私がこのことを否定したいわけではないが、真実は疑わしい。しかし次第に陰鬱になっていく様子は描かれている。本作によると自殺時にもミシェルという恋人がいたようである。
⇒ 本件について、私が「証拠を示してほしい」と書いていたせいか、2020年02月現在、この記述は削除されている。

本作は時間的順序に従っておらず、ごく最初の場面でダリダが自殺未遂をする。その少し前にルイジが自殺している。その事件から以前を回顧するように描かれている。


◇ 子供時代

カイロ時代の子供のころに描かれているのは、メガネをしていたこと、よく虐められていたこと、そして父親が連行されていくこと。父親の件は1940年ころで、ナチス協力者の疑いである。その後、父親が自殺。この描写は2005年版にも共通。


◇ ミスエジプト

ダリダは1954年のミスエジプトとなった。これはダリダにとって大きな出来事だろうと思うのだが、本作では取り上げられていない。また2005年版でも直接には取り上げられておらず、母親がニュースを見て不機嫌な顔をしている場面があるだけである。なぜなのか、私には不明である。

注、下に引用したカドカワのサイトにある紹介では1952年と書いてあるが1954年のはず。ミスエジプトのWikiPediaを見ても1954年になっている。


◇ 歌手になる⇒ルシアンと結婚

1956年「明日のナンバーワン」コンテストに出場。ルシアンも見ているが、そもそもこのコンテストには、あまり期待はしていなかったようである。

ダリダは「Aime moi」を歌い、ルシアンは「ぜひとも契約したい」と提案する。


バンビーノが大ヒットし、たちまちダリダの名前が知られる。

ダリダとルシアンはキスをするようになる。ダリダは結婚したがるが、ルシアンはダリダの経歴を重視する。それに「今は離婚したばかりだ」と言う。注、コンテストの時には、ルシアンはまだ結婚していた。

しばらくしてルシアンが指輪をもってくるが、ダリダは「友人でしかない」と驚くべきセリフを吐く。しかし二人は結婚する。


◇ ジャン・ソビエスキー

ルシアンと結婚した後に、カンヌでジャン・ソビエスキーと踊る。海岸を散歩する。彼はダリダの正体を知らない。一緒に海岸を歩く。結婚後一か月くらいのことらしい。注、ルシアンはカンヌには来ていない。

メディアに「ダリダに新恋人」と書かれて、ルシアンに追及される。「俺が育てたのに」「ファンのおかげよ」と対立する。

ジャンとのことに批判的なファンから会場に「葬式の花」が届けられるが、実際に歌いだすと大拍手。


◇ ルイジ・テンコ

デヴューから10年後、今までの会社とは縁を切り、弟のブルーノと会社を立ち上げる。

1967年1月、サンレモ音楽会に出場する。すでに名声があったはずだが「ルイジの歌を歌う」と言う。

本作では明示されていないが、ルイジとは、その前から関係があったようである。

ルイジが「Ciao amore ciao」歌う。ダリダは心配そうに見ている。その後にダリダが歌う。ルイジは予選落ちになったようだが、本作では明示されない。

2005年版ではルイジが緊張している様子が非常に強調され、その後すぐに自殺したように描かれている。

本作では歌った後ルイジと二人で車に乗って帰る場面が描かれている。その後にルイジが自殺。ダリダは絶叫。

ブルーノは「ルイジと会わせなければよかった」と悔やむ。

その後、一か月ほどたって、本作の冒頭にあるように、ダリダが自殺を図る。

ダリダは病院で「34歳で子供もいない」「死は心地よい、生は苦しい、死が私を望まなかった」と言う。本当にダリダが、このように言ったのかは疑問だが、映画なので、そのくらいの脚色は問題ないだろう。

入院した病院にルシアンも見舞いに来る。


◇ 甥のルイジ

youtubeにダリダが赤ん坊を抱いている画像がある。「誰なのか?」と思っていた。本作を見て甥であることが分かった。

甥が生まれたということでダリダを訪ねてくる。ダリダが「名前は?」と聞くと、緊張が走り、少しの沈黙があった。

その後に「ルイジ」との答え。ダリダがにっこりとしたので緊張が消える。


◇ ルチオ

1967年10月。再びサンレモに出場。「ルイジのために捧げる」。

「ルイジのファン」と言う若者と会う。ルチオ。22歳で学生だが、休学して働いているとのこと。「18歳の彼」という歌があり、年齢は変えてあるが、ルチオとのことらしい。

クリスマスの時にヒッチハイクでイタリアからルチオが訪ねてくる。家族に紹介するが冷ややかである。

ルチオの子供を妊娠する。この時は家族はむしろ喜ぶが、今度はダリダが躊躇する。

結局、ルチオには言わず中絶する。「もう連絡はしないで、これからも勉強を続けて」と手紙と金を渡す。注、直接渡したわけではなく、他の人からことづける。その後にダリダは泣く。


◇ インド

インドに行って、ヒンドゥーの寺院で、他の人々と一緒に瞑想をする。注、ヒンドゥーとは明示されないが、たぶんヒンドゥー。

導師と話す。導師は「なせ辞めたいのか?」と聞き「精神的な覚醒は自分自身であることです」「あなたの使命は歌うこと」と諭す。


◇ 「灰色の途(Je suis malade)」

インドから帰った後「灰色の途を歌いたい」と会場に交渉する。会場の主は否定的だが、ブルーノが金を払って会場を借りる。

陰気な歌は歌わないようにとの忠告だが無視する。「幸せになりたかった、でも死の影が付きまとう」。

2005年版でも本作でも泣きながら、この歌を歌っている。本当に泣きながら歌ったのかは疑問だが。しかしこの歌も人気を博す。

この後、ブルーノが電話を受けている場面がある。ダリダが歌っている舞台のそば。電話を受けて深刻な顔になる。この時のブルーノの声は字幕にされない。明示されていないが、この時期はルシアンが自殺したころ。


◇ リシャール

さてリシャールという恋人ができる。「サンジェルマン伯爵」「錬金術師」とか自称していて、かなり怪しそうな人物である。「前世も一緒だった」というので「飽きないの?」と言う。

本作では幾人かの恋人が描かれる。その中でリシャールは一番長く描かれる。そしてダリダは一番楽しそうである。注、実際に付き合った期間もリシャールが一番長い。

他の恋人とは、いろんなところに行く場面は描かれないが、楽しそうに街を歩く場面やヨットに乗っている場面がある。

しかししばらくすると、あまりうまくいかなくなったようである。

リシャールが「アラン・ドロンと恋」との雑誌記事を読む。ダリダは否定するが、リシャールは「誰でも信じるさ」とふてくされる。

(アラン・ドロンを意識して)リシャールが「一緒に歌いたい」と言う。「歌手じゃないでしょ」「アラン・ドロンだって歌手じゃないだろ」。一緒に録音するが、専門家からは否定される。

注、いくつかのサイトでは、ダリダとアラン・ドロンが恋愛関係にあったような記述がなされている。少なくとも本作では、それを肯定する情報は出されていない。ダリダは1933年1月17日生まれで、アラン・ドロンは1935年11月8日生まれで、ダリダが三歳近く年上。もし本当に二人が付き合っていたとすれば、二人ともかなり有名なので、もっと確実な情報、もっと多数の情報が流れていると思う。

「妊娠したかも」と医者に行くが、医者からは「中絶のせいで卵管が傷ついているので子供は生めない」と言われる。中絶はルチオの時。

リシャールが間違えてダリダの家政婦の恋人を殺す。執行猶予付きの判決。ダリダが保釈金と被害者への賠償金を支払う。錬金術師でもあるサンジェルマン伯爵は金を持ってなかったらしい。

新年会、みんなの前でリシャールと喧嘩する。ダリダは「出てって!この店からも私の人生からも」と言い、リシャールはその場から出ていくが、その後もしばらくはリシャールと付き合っている場面がある。

その間も、ダリダのビジネスは順調で、カーネギーホールで歌い、大人気となる。

結局リシャールは自殺する。


◇ カイロ

1986年ユーセフ・シャヒーン監督による映画が作られた。それでカイロに戻った。パレードが挙行され大歓迎を受ける。この時のダリダは元気そうである。この映画は「The Sixth Day」。フランス語(一部アラビア語)。主演はダリダ。コレラを扱った映画。

10歳くらいの男の子と階段に座り込んで話す場面がある。他に人はいない。この子は「一度死んだの?」とストレートに質問する。さらに「恋人はいるの?」と聞かれて「ミシェル」と答える。

「ミシェル」の単語は、最後の場面にも登場するが、ミシェル自身は本作には登場しない。


◇ 最期

最後のころは部屋に閉じこもっている様子が描かれている。家政婦によるとパスタか、それくらいのものしか食べなかったようである。「悪くなる一方です」と家政婦。

1987年5月2日。長年マネージャを務めた弟のブルーノが訪ねてくる。「一人で食べていたのか?今度一緒に食べよう」と言う。その時にダリダは自分で編んだ編み物をプレゼントする。「私を思い出してほしいの」と予告するようなことを言う。

弟のブルーノに、このように特別なことをするとは、あまり考えられない。2005年版では、このような場面はない。もし事実ではなくても、映画なので、そのくらいの脚色はあってもよいだろう。

ブルーノは「明日一緒に食べよう」と言うが「ミシェルと劇場に行く」との返事。

家政婦は外に出る時に「また戻ってきましょうか?」と聞く。ダリダは「ミシェルが来るから大丈夫」と答える。もちろんミシェルは来ない。

ミシェルのことは2005年版にはない。

飼っている犬(これはリシャールと共に飼い始めたブルドッグ)にエサをやり「起こさないで」と札をだして部屋に入る。その後はお分かりだろう。

2005年版では、ベッドでバルビツールを飲んでライトを消すところが描かれている。

メモに「人生に耐えられない、許して」。仕事では大成功し、圧倒的なエンターテイメントを披露したが、個人の生活は満たされなかった。


◇ 恋人関係まとめ

ルシアン:1961年
ジャン・ソビエスキー(ポーランド人、画家)、ルシアンと結婚一か月後!
ルイジ:1966年、イタリア人歌手
ルイジ自殺:1967年01月27日、原因はルイジがサンレモの予選で落ちたから
ダリダ自殺未遂:1967年02月26日
ルチオ:1967年12月
ルシアン自殺:1970年09月11日、ダリダとの関係は(私には)不明
リシャール:1972年10月
リシャール自殺:1983年07月20日
ミシェル:詳細不明、ミシェルの件は(私には)本作以外に情報はない
ダリダ自殺:1987年05月03日

ダリダを除いて三人が自殺しているが、ダリダと直結するものは、見当たらないように私には思える。しかし逆にダリダには衝撃を与えたことは確実である。特にルイジ。


◇ 蛇足

ダリダの来日は1962年、1970年、1974年。2005年版では、1962年に来日した時に、ホテルでマリリン・モンローの死亡記事を見る場面がある。

タバコ。本作ではしょっちゅうタバコを吸っている。2005年版では最後だけ。家政婦が訪ねてきた人に、タバコを吸う真似をして、嫌な顔をしている。

2005年版では周りの人からは「ダリ」と呼ばれているが、本作では本名で「ヨランダ」と呼ばれている。


◆ カドカワのサイトにあるダリダの略歴(見やすいように改行などを調整)

◇ 1933~1945年 | 0~12歳 | 誕生~幼少期

1933年1月17日、エジプトのカイロに生まれ。本名ヨランダ・クリスティーナ・ジリオッティ。イタリア移民の家系で、父・ピエトロはバイオリン奏者。母・ジュゼッピーナ、兄・オーランド、弟・ブルーノの5人家族。幼い頃に目の手術を受け眼鏡をかけて過ごす。父はダリダが12歳の時に病死。

◇ 1949~1954年 | 16~21歳

ミス・オンディーヌ&ミス・エジプト

自分を苦しめていた眼鏡と決別。1952年、ミス・オンディーヌの美人コンテストと、ミス・エジプトコンテストの栄冠に輝く。9月、スクリーンデビューし「デリラ」という芸名になる。

◇ 1955年 | 22歳 | パリへ ~ “ダリダ”誕生

単身パリへ渡る。「ダリダ」と名乗り、生活のためにキャバレーで歌い始める。

◇ 1956年 | 23歳 | ルシアンとの出会い

1956年4月9日、オランピア劇場で行われた「明日のナンバーワン」という新人コンテストで、ヨーロッパ1ラジオ局の芸術監督ルシアンが、舞台に立ったダリダに一目で虜になる。

◇ 1956~1957年 | 23~24歳 | バンビーノ現象

1956年8月28日、「Madona」でデビュー。続いて「Le Torrent」を発表。さらにデビューから2か月後の10月28日、「バンビーノ」を発表。3週間で30万枚の大ヒットとなり、ゴールドディスクを受賞。今日までの総売上数は4,000万枚。

◇ 1961年 | 28歳 | 結婚

1961年4月18日、5年間関係が続いていたルシアンと結婚。しかし1ヶ月後、ポーランド人の画家ジャン・ソビエスキーと出会い恋に落ちる。ルシアンはラジオでダリダの曲を流すことを拒否し、復讐をした。

◇ 1961年 | 28歳 | 成功

1961年12月6日、オランピア劇場でのショーが大成功し、エディット・ピアフからは「私の次はあなたよ」と賛辞が贈られた。モンマルトルに6階建ての家を購入。生涯その家に住み続けた。

◇ 1966年 | 33歳 | ルイジとの出会い

1966年夏、イタリア人歌手のルイジ・テンコと出会う。同年9月に再会し恋人同士になるが、2人の関係は世間には秘密だった。

◇ 1967年 | 34歳 | 最初の悲劇

1967年1月27日、ルイジが、サンレモ音楽祭の一次審査で落選し、その後ホテルで拳銃自殺。2月26日、ダリダは睡眠薬で後追い自殺を図るが、5日間の昏睡状態の後、一命をとりとめる。

◇ 1967年 | 34歳 | 18歳の彼

1967年12月、12歳年下のイタリア人青年ルチオに出会う。ダリダは妊娠したが父親になるには若すぎると、ルチオに黙ったまま中絶。後に手術のせいで子供を産めない体になってしまったことを知り、生涯悔いた。1974年1月18日に発表された「18歳の彼」の歌詞の裏には、この秘密のラブストーリーがあった。

◇ 1970年 | 37歳 | 新たなスタート ~ 別れ

1970年7月1日、弟・ブルーノがプロデューサーとなり、インターナショナル・ショーという会社(のちのプロダクションズ・オーランド)を設立し新たなスタートを切る。同年9月11日、元夫のルシアンが拳銃自殺。愛する人の自殺が2人目となる辛い出来事だった。

◇ 1972年 | 39歳 | サンジェルマン伯爵

1972年10月21日、サンジェルマン伯爵の生まれ変わりで錬金術と名乗るリシャール・シャンフレーに出会い、情熱的な恋に落ちる。ある晩、リシャールが強盗と勘違いし家政婦の恋人を銃で撃ってしまうが、ダリダが保釈金を支払い、執行猶予付きの1年の実刑と罰金となり、ダリダの元に帰ってきた。

◇ 1973~1974年 | 40~41歳 | あまい囁き

1973年1月17日、ブルーノがイタリアから持ち帰ってきた「Parole, Parole(あまい囁き)」をアラン・ドロンとデュエットし全世界で大ヒット。1974年2月18日、「愛するジジ」を発表、12カ国のヒットチャートのトップになる。

◇ 1976~1979年 | 43~46歳 | ディスコ

昔の曲をディスコビートにアレンジしたアルバムを次々に発表。1979年6月15日、「Laissez-moi Danser」でプラチナを達成。46歳で、パレ・デ・スポールで18回にわたる大規模なショーを開催。4,000人の観客の前で連日舞台に立った。

◇ 1981~1983年 | 48~50歳 | 3度目の悲劇

1981年、破綻していたリシャールとの関係が終わりを迎えた。2年後の1983年7月20日、リシャールが自殺。ダリダはついに3人も愛する人を自殺で失ってしまった。

◇ 1986年 | 53歳 | 故郷カイロへの凱旋

1986年9月29日、故郷カイロで、ユーセフ・シャヒーン監督『The Sixth Day』のプレミアが開催。主演のダリダの姿に300万人ものエジプト人が熱狂し成功を祝った。

◇ 1987年 | 54歳 | 最後の別れ

1987年5月3日、枕元に「人生に耐えられない。許して。」と遺書を残し、自宅の寝室で睡眠薬を服用し自殺。享年54歳。
 


 

 

 

 

弟(マネージャ)のブルーノ

ルイジ自殺

 

甥のルイジ

ルチオ

 

ルチオに分かれ

インド

 

リシャール