■ 日曜はダメよ
製作:1960年、脚本:ジュールズ・ダッシン、監督:ジュールズ・ダッシン 予告編 フル動画
■ あらすじ
ギリシャの港町にアメリカ人の古代ギリシャの研究者ホーマー(ジュールス・ダッシン)が訪ねてきた。ホーマーは専門の研究者なのでギリシャのことはよく知っている。隅から隅までとは言わないが、とにかくよく知っている。ホーマーは「哲学者のなりそこない」だそうである。
しかしギリシャへの思いがあまりにも強いので、何でもギリシャのものはよいと思い込む癖がある。欧米人が日本文化をことさらに憧れると同じような雰囲気もある。ストレートに言えばホーマーは「ギリシャかぶれのピントはずれの知識人」ということになる。注、これは私の意見ではなく、本作がホーマーをそのように描いている。
ホーマーはまず酒場を訪れた。そこには普通の目から見れば、じゃっかん野卑とも思える男たちが酒を飲みブズーキに合わせて踊っていた。しかしホーマーには「これぞギリシャ精神だ」と感じられた。注、ブズーキはギリシャの弦楽器。
ひょんなことから男の一人と喧嘩になったが仲裁に入ったのはイリア(メリナ・メルクーリ)。見ると、これこそギリシャ精神を体現したような絶世の美人。
イリアは英語も話すことができ男たちとの通訳も買って出る。注、しかし本作の男たちは英語を喋っている(笑)。
しかしイリアは娼婦でる。本作のタイトル「日曜はダメよ」というのはイリアが日曜には客を取らないことが由来であるが、本作を見ているとイリアは何かにつけて休業の張り紙を出している。
イリアは二人の男と交渉し、安い価格を提示したほうと合意したりする。気に入ったからである。イリアはそんな人物である。イリアはホーマーのマジメぶりをからかう。
しかしギリシャ精神を体現した美人が娼婦というのは、ホーマーのギリシャの概念からは外れている。さっそくイリアを下賤な仕事から足を洗わせようととりかかった。「娼婦のままで幸せなんて嘘だ」。
イリアも仕事を休んでホーマーの要求に応じてホーマーが作ったカリキュラムに従って勉強した。イリアの部屋には本棚が運び込まれ、本が積まれた。「あまり面白くはないけど、これでいいの」。次は休業ではなく廃業の張り紙。
ところで、ここは港町である。外国から船が入ってくる。船には船員が乗っている。このような町には、当然あるべきものがある。
この町には「顔なし」(No Face)というニックネームの男がいて、彼が娼婦たちを取り仕切っている。そして顔なしが彼女たちにアパートを貸していて法外な家賃を取っている。とうぜん娼婦たちは顔なしに不満を持っている。
イリアは顔なしの支配下ではなく独立して営業している。顔なしは、これが気に入らない、イリアを辞めさせたい。ここにおいて顔なしとホーマーの利害は一致した。もちろんイリアも顔なしが嫌いである。「おかしいね、顔なしもアンタも足を洗わせたがる」。
娼婦の一人がイリアに「ホーマーは顔なしの手先」と吹き込んだ。この娼婦とイリアはいわば商売敵なので、この行動は疑問ではあるが、「顔なし憎し」の感情が勝ったのだろう。
イリアはホーマーの「勉強」を放り出した。「宣教師は追い出した」と宣言する。娼婦たちと一緒に顔なしに対する抗議行動を展開した。
イリアも含めて娼婦たちは逮捕されてぶち込まれた。
しかし折しも大艦隊が入港した。顔なしとしては書き入れ時である。困ったことになった。そこで弁護士を送り付けた。
交渉の結果180ドラクマの家賃を90ドラクマに下げることで一致した。
彼女たちは釈放され、ホーマーは町から立ち去った。ホーマーのギリシャに対する畏敬の念は崩れ去ったのか、彼女たちがギリシャ精神に合致しないと感じたのかは不明である。
■ 蛇足
ジュールズ・ダッシンは有名監督だが、「裸の町/The Naked City(1948)」と「街の野獣/Night and the City(1950)」を挙げておく。前者はモデル殺人事件を捜査する刑事の姿を描いたもの。後者はリチャード・ウィドマーク主演で、客引きが突然プロレス興行を思い立つもの。後ほど「ナイト・アンド・ザ・シティ(1992)」としてリメイクされた。こちらはロバート・デ・ニーロとジェシカ・ラング。