長いもので申し訳ないが、まず引用。

少年時代に、私はこの種の魅力的な体験をしたが、それが今でも記憶の中に、この上なく生き生きと残っている。それは五月のある朝だった。それがいつの年であったかもう定かでないが、今もう一度歩いてみれば、その場所がスイスのバーデンの北方、マルチンスベルクにある森の小径のどのあたりであったか、はっきりと言うことができる。朝の光が射し込んできて、鳥のさえずる声が聞こえる新緑の森の中をあてどもなく歩いていると、すべてのものが急に不思議なほど明るく見えてきた。それまで私はしっかりと見ていなかったのか? そして今になって突然に春の森を、それが現実にあるかのように見たのだろうか?不思議な足取りで心に近づいてきて語りかける美しさの輝きの中で、その森は光を放っていた。それはまるで、私をその輝かしさの中に包み込もうとしているかのようだった。その一部になり、この上なく幸せに保護されていると言う、言いようもない至福感が私の体を駆け巡った。

その光景に魅せられて、どれほど長い間そこにとどまっていたかは知らないが、今でも覚えているのは、輝いていた景色がゆっくりと消えていって、再び散歩を続けるようになるまで、私はこのような状態の中に没入していたことである。この表現しがたいほどの深い体験が現実に、しかも確実に現れてしたのに、どうしてこの瞬間はそれ以上続かなかったのだろう?そしてまた、自分が見たことを表す言葉が一つも見つからないと即座に認めたのに、こみあげてくるような喜びのこの体験をどのようにして人に伝えようと言うのか?私が子供のときに、大人では明らかに気づかないような、とても不思議なものを見たというのは、私には珍しいことのように思えた。なぜなら、私は大人がそうしたことについて語っているのを一度も聞いた覚えがなかったからである。

その後の少年時代にも私は、森や野原を通り抜けて歩き回ったときに、そのような幸せな体験を何回かしたことがある。日常の光景からは隠されていて計りがたいが生き生きとして現実の持つ存在の確かさを私に与えることによって、私の世界像をその本質において決定付けたのは、まさにこうした体験なのである。

これで引用終わり。引用元は最後に示そう。これはいわゆる超越体験あるいは神秘体験といわれるものだ。これを体験するのは、ごくわずかの人ではあるが、しかしよく知られている体験でもある。それは一見、何の脈略もなく突然ある個人を襲い、多くの場合一瞬のうちに走り去っていく。しかしたとえたった一度のほんの一瞬の体験であっても、超越体験は、その人の心に一生消し難い印象を残し、その人生観を変えてしまう。有機農業家の福岡正信は「私は神を見たのです」(「自然農法 (?)」)と言っている。超越体験を現実に経験したことのない者でも、この文を読んでみると、本人に深い影響を与えたことがよく分かるだろう。

この種の体験は、禅では魔境と言って退けるけれども、宗教の世界において、特によく知られている。例を挙げようとすると、数が多すぎて迷うほどだが..。ジョセフ・スミスは、やはり少年のとき、森の中で跪いて祈っていると、その前に突然イエスの幻影が現れた。彼は後に末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)の開祖となった。他の人には見えなかったけれども、ベルナデッタと言う少女の前には聖母マリアが現れた。その地はルルドとして世界中に名を知られるようになった。フレンド派(クエーカー)の開祖ジョージ・フォックス、ヒンドゥーの聖者ラマナ・マハリシ。

宗教的な例は嫌だというならば、次の例。日本の高校生である。

八月後半のことである。部活の帰り、友達と別れて小田急線の柿尾駅から本厚木行きの電車に乗った。(省略) 私はぼんやりと窓の外を眺めながら夏の美しさを感じていた。毎日毎日目にする、どこといって特徴のない、場合よってはあきあきするような景色も、こうして見るとやっぱりいいなぁと思った。今、この夏の陽射しに照らされて、乗りなれた電車に揺られ慣れ親しんだ風景に包まれてのんびりと帰っていく自分に幸せをつくづく感じた。生きているっていいなぁと思った。

木々はきらきらとゆらめき、花々は美しく光の粉を散らしている。その光景は少しずつ輝きを増し、虹色にきらめく無数の光の束が車内にうっすらと射し込みはじめた。次第に車内はさんさんと光に満ち、人々は美しい微笑をたたえてこの上なく幸せそうだった。私は全身が総毛立つ一方で、体の芯がじわじわと熱くなり、今にも舞い上がりそうな歓喜を覚えずにはいられなくなった。

(省略)

言っても言っても言い足りない。とにかく、すべてのものに、自分を今にいたるまで導いてくれたありとあらゆるものに身も心も投げ出して感謝の気持ちを伝えたかった。

本当はもっと長いのだが、これだけでも彼女の感激が十分に伝わるだろう。原文は英語の授業のレポートらしい。「聖なる体験」(FAD編集部)。

今度は歌。

When I find myself in times of truble Mother Mary comes to me. Speaking words of wisdom, let it be. And in my hour of darkness, she is standing right in front of me. Speaking words of wisdom, let it be.

こちらは、ご存知ビートルズの「Let it be」。聖母マリアが現れて仏教的な「あるがままに(Let it be)」とは、ちょっとばかり変だが、私がこの点を指摘すると、知人は「それがビートルズなんだよ」。ビートルズの歌には、このような精神的なことを題材にしたものがとても多い。Lucy in the sky with diamond、Hey Jude、Yesterday、Yellow submarine。

今回は引用ばかりだったが、最初の引用文はアルバート・ホフマンによるもの。といってもご存じないだろう。「LSD - 幻想世界への旅」(新曜社)からの引用。子供の頃、このようなすばらしい超越体験を何度もしていたアルバート・ホフマンは、大人になって製薬会社サンド社の研究所に入り、LSD-25を合成した。そして偶然のことからLSD-25の効能を発見した。彼が子供の頃に、このような体験をしていたのは、私にはとても不思議なことに思える。