◆知識社会・知識産業・知識労働者

これは第一部のみならず本書「ネクスト・ソサエティ」全体を通しての大きなテーマとなっている。詳しく検討していく価値があるだろう。「知識産業」という言葉は1960年頃にフリップ・マクラップが言い、「知識社会」と「知識労働者」はドラッカー自身の言葉であるという。

ドラッカーの主張を簡単にまとめると、現在では今までに見られなかった新種の知識労働者が増加している。ネクストソサエティでは、さらに知識労働者が増加する。これらの新種の知識労働者は、主に「テクノロジスト」ということができる。知識とは専門化であり、したがって知識労働者は専門領域において自らを規定し、組織への帰属性が薄い。知識が主たる生産手段になることとあいまって、知識社会は競争社会となる。

この主張は、ほとんどすべての現代人に、違和感なく受け入れられるだろう。はたしてその通りか。

個人的には、ここの議論は「知識という言葉の印象を元に勝手に印象を自己展開して言った」との印象を拭い去ることができない。ひどい言葉を使ったかもしれないが、おそらくこの議論は彼の本能にまで高まっており、ほとんど意識しないでも文章が流れ出てくるのだろう。以下私の指摘が正しいか検証していただきたい。

実は「言葉の印象を自己展開する」というパターンは、ビジネス書には非常に多く(おそらくは無意識に)用いられている。言葉の印象をもとに浮かんでくるイメージを言葉にして、出てきた次の言葉から、さらに展開を次々と繰り返していく、そして現実から遊離していく。その言葉の一般的な印象を元にするので、読者にしても非常に読みやすく、なんとなく納得してしまう。そこには著者と読者の双方の思考の停止がある。

結論を言うと、私は「知識産業」という言葉には納得するが、「知識社会」や「知識労働者」という言葉には納得できない。特に後者。

◆知識

まずドラッカーが捉えている「知識」の特性について。

「知識は資金よりも容易に移動する」(p5)。「徒弟制ではなく、学校教育でしか手に入れられない知識を基盤とする」(p6)。「知識は専門化して、初めて有効となる」p21。「知識こそが知識社会と知識経済における主たる生産手段」(p21)。「知識は急速に陳腐化する」(p25)。「知識とは専門化である」(p26)。「知識に上下はない。状況への関連の有無しかない」(p26)。「知識は相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆるものが自力で獲得しなければならない」(p26)。「知識は教えることができなければならない。すなわち公共のものである。誰でもアクセスできる。あるいはただちにアクセスできるようになる。この事実が知識社会の高度の流動性をもたらす」(p27)。「知識は常時使わなければ劣化する。それゆえ時折の仕事を内部で行っていたのでは成果を上げられなくなる」(p41)。

上記について以下の2点で考えてみる。

・ドラッカーは知識を明在知に限定しているが、これに問題はないか。
・知識は生産手段となりうるのか。

ご存知のように知識には明在知(←形式知とも言う)と暗黙知があり、仕事に必要な知識に話を絞れば、明在知は学校や書物から得られる知識、暗黙知は実際の仕事から得られる知識におおむね対応する。ドラッカーが明在知に限定しているのは、「徒弟制ではなく」という言葉から明らかだ。全体の印象からも明らかと言ってよいだろう。

明在知と暗黙知は仕事を遂行する上での両輪だ。そしてよくお分かりのように「仕事の実力の差」というものは、主に暗黙知の差である。仕事を遂行する上で暗黙知は大きな役割を果たしている。また明在知を実際の仕事に適用する技術が暗黙知であるとも言える。

しかし暗黙知は容易に移動もできないし、簡単に教えることもできないので、公共のものでもないし、習得するためには多大の労力と期間を必要とする。本来ならドラッカーのような知性が、このようなことを見落とすとも思えないが、「知識社会の到来」、「知識労働者の増加」などを強調したいと言う意欲が強すぎたためではないか。ちなみに「教育だけでは経験や知恵は与えられない」(p160)。とも言っており、ドラッカーが本質的にはこのことを理解していることが分かる。

ついでながら言えば暗黙知は個人に固有のものだ。確かに同じ分野の熟達者の暗黙知には共通のものが多いだろう。しかし暗黙知は、個人的な体験で習得するものなので、その本人自身の付属物であり、個性である。逆に明在知は、書物にすることができ、講義で教えることができるので、企業や団体にも属するものとして考えても良いのではないか。知識が公共のものであると言いながら、(第一部第5章で言うように)生産手段(知識)が企業から個人に移ると言う主張には強引さが感じられる。

「知識が生産手段となる」。この言葉は、なんとなく耳に心地よく、聞き逃してしまいがちな言葉である。意地悪く指摘するならば、ドラッカーは根拠を示していない。失礼だが、ドラッカーの知性とは裏腹に彼は「なんとなく感覚で展開してしまう」というところがあり、ここもその性格がでているように思う。

「知識が生産手段となりうるのか」というのは、どのようなことか。まじめに考えようとすると、意味不明の趣がある。「そんなにまじめに考えなくとも良いではないか」との忠告もあるかもしれないが、これは私の性格である。

本当に知識が何かを生産するわけではない。この言葉を検討すると、何かを生産する場面において、知識の有無・レベルが重要な役割を果たす、他との競争において知識の有無・レベルが重要な役割を果たす、というようなことの単なる言い換えであることが分かる。

「知識が生産手段となる」。この言葉には、奇妙な言い方だがエネルギーが付着するという性質がある。そして聞くものにある種のエネルギーを与える。先に言った「言葉を自己展開する」ためのエネルギーとなっている。


◆知識労働者

次にドラッカーは知識労働者をどのように捉えているのか。これも実は定義はなされていない。例が多く提示されている。「知識労働者という言葉は、今日のところ、医師、弁護士、教師、会計士、化学エンジニアなど高度の教育と知識を持つ一部の人たちを指すにとどまっている。だがこれからはコンピュータ技術者、ソフト設計者、臨床検査技師、製造技能技術者など膨大な数のテクノロジスト(技能技術者)が必要となる」(p6)。「新種の知識労働者が急速に増加している。..(中略)..X線技師、超音波技師、理学療法士、精神科ケースワーカー、歯科技工士がいる」(p23)。「コンピュータ、製造、教育のテクノロジストも、今後に、三十年間の間に、さらに増加するはずである。弁護士補助職のような事務テクノロジストも増加する」(p24)。

「アメリカでは、この知識労働者が人口の三分の一を越えた。実に工場労働者の倍である。20年後には、先進国では全労働人口の4割に達することになる」(p20)。(しかし「人数的には、まだ知識労働者は少数派である。ずっとそうかもしれない」(p178)とも言っている。どちらが本当だ!)。

知識労働者の定義を明示していないので、例を出してドラッカーがどのような職種を知識労働者と見ているのかを示した。はっきり言って知識労働者の範囲が広すぎる。確かにこれらの職業は専門知識を必要とするだろう。しかしX線技師が知識労働者だろうか。歯科技工士が知識労働者だろうか。弁護士補助職が知識労働者だろうか。

ちなみにp145で知識労働者の生産性の問題を取り上げて「デパートでは店員の時間の7割から8割が、顧客への対応ではなくコンピュータの対応に使われている」(p145)としている。デパートの店員も確かに専門知識を必要とするだろうが、しかしこれではすべての職業が知識労働となってしまう。

もう一度言う。知識労働者の範囲が広すぎる。ドラッカーは、本書で「知識労働者が増加する」ということを主張しているのだが、それを強調したいあまり、何もかも知識労働者にしてしまっているのではないか。

ドラッカーの言っている知識労働者を私なりに定義すると「専門知識を利用して仕事をする人」。この定義は一見して何の問題もないように見える。もう一度言う。この定義は一見して何の問題もないように見える。しかし専門知識は、ほとんどどんな職業にもあるもので、このように定義すると、ごらんのように非常に多くの職業が知識労働者となってしまう。「彼は知識労働者であるとともに、肉体労働者でもある」(p6)という文章が私の見解を裏付けている。そしてこの文に認められる知識労働者の二重性が知識労働者の概念を崩壊させていることも見て取れる。

私なりに知識労働者を再定義すると「専門知識を自らの商品としている人」。この定義によると弁護士は知識労働者だが医者は違う。コンサルタントは知識労働者だがソフトウェア開発者は違う。これで範囲が適当に絞られたのではないか。いかがだろうか。


◆知識社会

狩猟→農業→工業→サービス業→知識産業と主要な産業の移り変わりを基にした歴史観がある。

これも単に当該産業の従事者の比率で判断するのか、あるいは社会を特徴づける産業に注目して判断するのか、という問題がある。

前者の定義は明らかだろう。後者についてたとえで説明する。「江戸時代は武士の時代である」ということができると思う。小学校か中学校の教科書にも、このような説明があったと思う。江戸時代に多かったのは農民である。武士の時代と言うのは、武士が支配階層であったという意味だ。

これを踏まえると、知識社会と言う言葉は、「知識産業が他の産業よりも大きな売上げを上げ、知識労働者が他の職業よりも多くなる社会」か「知識産業や知識労働者は、決して多くはないけれども、多くの人の注目を集め、社会的な影響が大きい社会」となる。

ドラッカーの知識社会の定義は明らかに前者である。「ドラッカーも知識産業や知識労働者の影響が大きいことを認めているではないか」と言われるかもしれない。しかしドラッカーの論理展開は「知識産業や知識労働者が多くなる→影響力が大きくなる」というものだ。

予測をしてもあまり意味はないのだが、私見では、ドラッカーの言う意味ですなわち前者のような知識社会が来るとは思えないが、後者の意味での知識社会は到来するのかもしれない。

少々長く述べてきたが、「知識を明在知に限定している」、「知識労働者の定義が不適切である」という二つの理由によって知識社会すなわちネクストソサエティの展開の論理が危うくなっていることをご理解いただけたと思う。