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第二章では、飛躍した企業は「第五水準の経営者に導かれていた」と主張している。第一水準から第五水準の定義は次のとおり。31p。


・第五水準 第五水準の経営者 個人としての謙虚と職業人としての意志の強さという矛盾した性格の組合せによって、偉大さを持続できる企業を作り上げる。

・第四水準 有能な経営者 明確で説得力のあるビジョンへの支持と、ビジョンの実現に向けた努力を生み出し、これまでより高い水準の業績を達成するように組織に刺激を与える。

・第三水準 有能な管理者 人と資源を組織化し、決められた目標を効率的に効果的に追求する。

・第二水準 組織に寄与する個人 組織目標の達成のために自分の能力を発揮し、組織の中で他の人たちとうまく努力する。

・第一水準 有能な個人 才能、知識、スキル、勤勉さによって生産的な仕事をする。
この第五水準の定義は、経営者の資質として挙げるのはかなり奇異である。最後の「偉大さを持続できる企業を作り上げる」という部分は結果なので、それを削除し、一から五の数字を隠して、「これらを順番に並べてみよ」とクイズを出したら、おそらく第五水準は、第一水準と同程度と見做されるだろう。


著者と調査チームは、当初は偉大な企業を作り挙げるための要素として、経営者の資質というものを排除して考えていた。偶然的なものではなく、もっと必然的な要素を想定していたのである。しかし飛躍した企業と比較対象企業の経営者を見てみると、どうしても、経営者の資質の違いというものが明白に浮かび上がってきた。当然「第五水準」という概念も当初はなかったものだ。

まず個人としての謙虚さ。偉大な業績を上げたにもかかわらず、これらの経営者は、それを自慢しない、あるいは自分の能力であると認めない。まるで他人事のように、部下が良かった、運が良かったと強調している。またインタビューで水を向けられても、頑として否定している。これが本書では、いくつもの事例を挙げて説得力を持って記述されている。そして比較対象企業の経営者の自己顕示欲の強さが挙げられている。飛躍した企業の経営者は自社の業績を掴んでおり、自分が経営者であり、それに貢献したことを認識しているものと思われる。

本書では検討していないが、偽装説が考えられる。自分を自慢したいと思ったときに、直接的に自分を自慢するのはアホである。少し賢い人間ならば、他人を誉めたりして間接的な形で自分を自慢しようとするだろう。彼らは、そのようにしたのか。全体的な印象から私は違うと判断する。あるいは単に表現力がないからなのか。これも相手から水を向けられても自分の能力を否定していることから違うと考えられる。

次に実行力と強い意志。彼らの個人的な謙虚さと大胆な実行力の落差に著者も驚いている。例えばキンバリー・クラークのダーウィン・E・スミスの例。彼は就任直後に中核事業のコート紙事業の売却と消費者向け紙製品市場への進出を決定している。本書では、それを「上陸直後に船を焼いて退路を断った将軍」と表現している。31p。実行力と強い意志についても、いくつもの例を挙げて説得的に記述している。

一つの疑念が浮かび上がる。「彼らは思想や論理で、すべて割り切ってしまうタイプか」。強烈な思想とか論理を持って、それですべてを判断する人間は危険である。このような人間が政治家や経営者になるとロクなことはない。国民や従業員が困ろうが泣こうがブルドーザのように推し進めていく。

彼らは、そのようなタイプなのか。私は、この疑念を否定する。(本書の由来からして、このようなことを読み取るのは、かなり難しいのだが、)彼らには、一種の人間的な深みが感じられなくもない。またこれらの飛躍した企業とレイオフが比較対象企業と比較して非常に少ない。「飛躍を達成した企業十一社のうち六社は、転換点の十年前から1998年までの間に一度もレイオフを行っていない。残りのうち四社も一回か二回しか実施していない」。86p。

本書では指摘していないが、はっきり言って彼らは変わっている。彼らは「派手な自己顕示欲の強い経営者」でもなく「人格円満な八方美人」でもない。むしろ「人付き合いが悪く、頑固で自分を表現することができない人間」とうつる。再びキンバリー・クラークのスミスの例。「あるとき、経営スタイルを説明するように記者に求められた。このときのスミスは、いかにも野暮ったい黒ぶちメガネをかけ、安売りのスーパーで初めてのスーツを買って着込んだ農村の若者のように、なんとも垢抜けしない服装であった。気まずい沈黙が延々と続いた後、スミスは一言『風変わり』と答えた」。29p。しかし彼らは異常ではない。また仕事中毒でもない。身近な関係の人とは、むしろ深い関係を築いた人が多かったようだ。そのことを本書はいくつかの事例を使って説明している。

お分かりのように、第五水準の人々は組織を階段を上るのが困難だ。十一社のうち内部から昇進した経営者が十人。うち三人が創業者一族に属する。残りの七人がどのようにして経営者になったのか調査して欲しかった。

このような人間になりたいと思うかどうかは別にして、さて「第五水準の人間になることができるだろうか」と、ある女性経営者の質問を媒介にして、著者は問いを立てる。57p。著者の考えは「二種類の人間がいる。なれる人間となれない人間が」。この間には大きな壁があると著者は考えている。「能力の違いではなく人間自体の違い」と考えている節がある。従ってマニュアル化することはできない。努力を否定するような、このような考えはある意味危険である。しかし私は、この説に賛成する。

これら十一人の経営者のうち何人かは「世界観が変わるような体験をしている」と指摘している。結論付けているわけではないが、これらが第五水準の人格と何らかの関係があると考えているようだ。もちろん、これは外面的なことであって、本人にとって深い体験であっても外からは分からないことがある。経営書としての本書の由来からも外面的な考察しかできていないのは当然である。従って本書の第五水準の定義も外面的である。「第五水準とは何を意味するのか」考えてみる価値はあるかもしれない。あるいは別の言葉で定義しなおしてみる価値はあるかもしれない。