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第六章のタイトルは「人ではなく、システムを管理する - 規律の文化」。

まず飛躍した企業というものがあって、著者はそれらの企業を調査・評価し、この本をまとめた。それを私が読んで理解し、さらに要約し私の感想を加える。(本書を直接に読まれている方は別として、)読者は私の文章を読む。それぞれの過程でギャップが入り込む隙がある。このことは、当然すべての章に言えることだが、第六章において特徴的に現れているように感じる。

著者が企業の実態を調査・理解し、言葉にまとめて、それを私が読む。私が本書を理解し、言葉にまとめて、読者が読む。という同じ構造が二回現れている。(ついでながら言えば翻訳が介在しているということも言える)。

「人間が事柄を理解するときに、言葉にすることが必須なのか」という難易度が高そうな問題があるのだが、ここでは、その問題は避ける。

何か事柄を調査したり、読んだりしたときに、それを理解して言葉にする。言葉として言い表した時に、本人には「この件については、理解した」との感覚が生まれる。そして今度は、その言葉を思い出すことによって、頭の中でその事柄の全貌を概観する。その時に「自分は、この事柄について、ちゃんと理解している」との感覚を再確認する。

当の本人は、自らの認識を伝えるために、その言葉を文章にしてあるいは口頭で他の人に伝える。聞いた人は、その聞いた言葉が出発点になる。その言葉を出発点にして、あれこれと考える。その言葉を聞いたとたん、何か分からなかったことが、一瞬にして納得がいったりするかも知れない。とにかく、その言葉を出発点にして、いろいろと展開する。しかし話が間接的なので、直接事柄に接した人が持っている「ちゃんと理解している」との感覚が、存在しない場合が多い。存在しても、それが元の人と同じである保証はない。この状況は「言葉が独り歩きする」とまとめることができる。

さて、話がそれたような気もするが、このような状況で私は本書を読んでいる。そして前述のように私と読者の間にも同じ構造がある。これを頭に入れていただきたい。

本章では「規律」という言葉が頻繁に使われている。キーワードはいわば「規律」である。本書を読んだ人は、その言葉を出発点にして、あれこれと展開する。規律という言葉は、きわめて抽象度が高い。抽象度が高いと、この言葉を聞いた人の展開可能範囲が拡大する。著者→私→読者と伝わるうちに、それぞれのイメージがバラバラとなっている可能性が高い。(しかしそれを確認する手段はない)。

「規律」と言う言葉は、外部から拘束するというようなイメージが強いが、一方で自己規律という言葉もある。本章で使われている規律という言葉は、「外部からの拘束力」というよりも「自らが価値を認めて積極的に守るもの」というイメージが強い(と私は感じた)。「偉大な企業では、第五水準の指導者が持続性のある規律の文化を築き上げている。これに対して飛躍を持続できなかった比較対象企業では、第四水準の経営者が強烈な力を発揮し、ひとりで組織に規律をもたらしていた」。207p。規律の文化を築き上げることができなかった企業は、「規律」を維持するために、規則を作り、手順を複雑にし、管理者を配置し、官僚組織を作り上げることになる。「官僚制度は規律の欠如と無能力の問題を補うためのもの」(p228)と手厳しい。

また「規律と創造性の関係」として、ポートフォリオ分析のようなマトリックスを提示している。194p。



_                            規律の文化・高い     規律の文化・低い
企業家の精神・高い   偉大な組織        企業家的組織        
企業家の精神・低い   階層的組織        官僚的組織          

面白いと思ったのは、「官僚的組織」というような日本でよく使われるような言葉がここにも出てきているということ。どこの国でも同じなのだろう。